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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「さあ〜〜悪風に譬えて話しょう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」、「さあ一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」(『逸話篇』一八三) これは明治十八,九年頃、僧侶、神職その他世間の反対攻撃がはげしくなってきて、一部の者が、それに対する積極的な抗争を訴えたときに、教祖が諭されたお言葉で、私たちにとっても節に対処する上で大切なことを教えられているように思われます。 明治二十九年四月六日に発布された秘密訓令をみてみましょう。これは政府による本教への弾圧、撲滅を意図するもので、これによってたすけ一条の道が阻止され、様々な改革を余儀なくされます。松村吉太郎著『道の八十年』によりますと、従来の神楽づとめを改め、御面机上に備え、男子のみで「ちょとはなし」と「かんろだい」のつとめだけつとめる(朝夕のつとめも同じ)、医師の手を経ない以上みだりにおたすけしない(さづけが医療行為の妨害とみなされたため)、教会新築工事は華美にならないこと、神鏡を目標とし、本部より下附するものに限る、をびや許しは熱心な信者に限り授与する、お守りは席順序を運ぶ者に限る、教理の説き方を一定にする、天理王命を天理大神と称し奉ること、楽器は三味線、胡弓を用いないこと等の改革、制約を課せられることになります。この一件一件について神意を伺い、お許しをいただきますが、このことは秘密訓令の発布から十五日後のおさしづ「これがならんと言えばはい、いかんと言えばはい、と答えて置け。」との指示によると思われます。 明治二十九年四月二十一日のおさしづに次のようなお言葉もあります。「反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。」これは、親神、教祖の親心を示されるとともに、信仰は神一条の実践が大切であること、これがないと信仰に反対しているのと同じであることを意味していると思われますが、そのあとにつづく「一時見れば怖いようなもの。怖い中にうまい事がある。水が浸く、山が崩れる、大雨や〜〜。行く所が無いなれど、後はすっきりする。」、「道の中の反対は、肥をする処を流して了うようなもの」はどのような意味をもつのでしょうか。 これは「泥水すっきり流して了う。泥水の間は、どんな思あんをしてもどうもならん」といわれますように、泥、埃の心をそうじするための大節であり、「道の中の反対」をする者をはっきりさせる、という意味をもつと思われます。 『道の八十年』によりますと「黒ほこり、泥ぼこり立ち切ってある。この黒ほこり、泥ぼこりの中で、どうして守護できるか」(M30.2.1)の「黒ほこり、泥ぼこり」とは橋本清、前川菊太郎の二人で、それぞれ明治三十年十二月四日、十一日(『天理教史参考年表』による)辞職と記されています。又両名は明治三十一年本部を相手に5千円を恐喝、橋本は翌年『天理教の内幕』(一部の信者の教理の誤解を針小棒大にしたためたもの)をちらつかせ、再度の恐喝事件を起こしたとも記されています。 又明治三十年には平安支教会長飯田岩次郎が水屋敷事件(安堵事件ともいう)をおこします。飯田は水のさづけを許され、不思議なご守護をみせて頂いていましたが、そのうちに月よみのみことの天啓をうけたと称し、おぢばは火の屋敷で、平安の屋敷は水屋敷で、水は火にまさるので、この水屋敷が元始まりの屋敷である、と唱えるようになります。 この件に対しておさしづを伺うと「水屋敷と言うた事は無い。人に授けたる」(M30.8.2)、「二所も三所も出来るものなら、元のやしきは要らんもの。元分らんから、そういう事するのや」(M30.11.13)と厳しく戒められています。 慶応元年の助造事件につづく異端の発生に対して、本部員会議の結果、十一月十八日飯田は免職となり、平安支教会は竜田に移され、板倉槌三郎氏が新たに会長就任となります。一見落着をみますが、助造事件とは本質的に解決において相違があるように思われます。 水屋敷事件では会長の免職、交代、教会の移転という法的な措置が講じられただけで、異端という泥はいわばフタをかぶせられただけではないでしょうか。水のさづけの効能に対する慢心、親神、教祖のお働きを無視する自分の力への過信、高慢の心は少しも払われることのない表面的な解決ということになるでしょう。茶碗一杯の清水で、泥水を「澄まそうと思うても、澄みやすまい」とはそういう意味ではないでしょうか。 水屋敷事件では泥を見えない所に移したにすぎないのに対して、助造事件では「助造も金剛院も、平身低頭して非を謝した」(『教祖伝』六六頁)のみならず、土産を人足をこしらえてお屋敷まで届けています。教祖は助造の異端(針ヶ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹と唱える)に対しては、断固たる態度で厳しく対応されていますが、反面では事前に三十日間の断食(「たすけ一条の台」という意味については既述)をされ、「わからん子供がわからんのやない。親のをしへがとどかんのや」(『正文遺韻抄』五六頁)と思し召され、「あいそをつかさず、くりかえし〜〜御親切におとき聞かし被下ました」ことによって、助造が非をわびるようになり、異端の泥は払われたのではないかと悟らせて頂きます。助造の神名を唱えさせて頂きたいとの願いにも「唱へる丈はゆるしておかうと被仰下て、まず何事もなく治まって、おかえりあそばされました。」(同、六十頁)と記されています。 ここに教祖の親心の偉大さを偲ばせて頂けるとともに、異端やお道に対する反対攻撃への対処の仕方や真の解決の難しさを感じさせて頂くことができます。また「悪風が止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで」というお言葉に示されますように、節に際して、節は埃のそうじをして下さっていると悟り、親神、教祖を信じきり、じっと耐えることも大切であることを学ばせて頂けるように思われます。 「この道は智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いとは言わんのや。」(『逸話篇』百九十) このお言葉は明治十九年春、肺病に近い肋膜炎にかかった高安初代松村吉太郎さんが、親戚の僧侶や担当の医者から天理教の悪評を吹き込まれ、それまで反対していたこのお道を、両親や兄弟の説得で本気に信仰するようになり、不思議な救けを頂いて、ぢばに御礼参りをした時に教祖から諭されたものです。 氏は当時若干二十才で、学問の素養などもあったため、お屋敷に寄り集う人々に見受けられる無学さ、粗野な振舞いに軽侮の念を感じていたようです。教祖にそのような高慢な心をすぐに見抜かれ、心の底からさんげをし、ぢばの理の尊さを深く感銘したと記されています。 氏はその当時村役場に勤めていますので、毎週土曜日の午後からぢばに帰り、日曜日に教理のお仕込みをうけ、月曜日の未明にぢばを出発し、役場の出勤時間に間に合うように高安に帰るのが常であったと伝えられています。元治元年五月本席さんが初めてお屋敷に参詣された時に、教祖は「さあ〜〜、待って居た、待って居た。」と喜ばれ、続いて「救けてやろ、救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」といわれています。「誠にする」とは親神、教祖を絶対的に信頼する、神一条に徹しきるという意味と考えますと、このお言葉によって本席さんの心が試されていると悟れます。教祖には一介の大工が後の本席と定まることが決定されていたと思われます。 松村さんの場合も、明治二十一年一月八日身上についておさしづを伺うと「神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。(中略)天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。(中略)元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほんの何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」と諭され、親神、教祖への絶対的信頼、神一条を強く求められます。本席さんと同じく後に一派独立運動などの困難に対処できる用木としての素質を認められ、将来を嘱望されていたと思われます。 「艱難汝を玉にする」という諺通り、明治二十二年には三月三日第六号の指令をもって本部からの教会設置の認可は頂いたものの、四月十六日には大阪府からの認可は却下され世間の嘲笑、親戚からの非難をうけます。また同年七,八月には祖母タミ、父栄次郎がそれぞれ身上という節を見せられます。二人の病勢がいよいよ募り、危険が迫ってきましたので、松村さんは悲壮な決心で、十三ヶ条の誓文をしたため、本文を神前に供え、その写し文は常に氏の懐中に収められ、その実行を怠ることがなかったと聞かせて頂きます。 この誓文は人間思案をすて、神一条に立脚して心定めをされたと思われますので、参考のために、用字用語を現代表記にし、一部省略、改めて紹介させて頂きます。 一、 両親は月日の名代なれば、月日に仕える礼をもって仕えること 二、 家内はもちろん、他人へも我が力の及ぶ限り、相互助け合いの精神をもってする 三、 日々の勤めは、米を買って日々生活する貧乏人の如き、どんと落ち切りたる者の心になって、人に迷う事なく、人の上に立つ事なく(中略)兄弟はもちろん、いかなる人もその人の心に応じて交わり、いかなる人も人は神なりと思って、その言に迷う事なく仕える 四、 朝は早く起き、夜は遅く寝て、たすけ一条のため、慈悲善根の道を修めるに怠る事なく、終日終夜をもってこの道に従事する 五、 誠の精神をもって日々家事を治め、一時通る道すがらにより難儀不自由はもちろん首に袋をかけるような処まで落ち切る道を通らされても、決して神をうらむ事なく、心に不足を思う事なく、(中略)千金を積み重ねても貧のため誠を変えることなし 六、 今後は、神一条の道に心を寄せ、決して神の御話を疑う事なく、神の道を貫徹するには刑場についても変える事なく(中略)心は神一条の精神をもって貫徹すること 七、 神の道において、我が精神にこれなりと定めた上は他よりいかなる事を言っても徹頭徹尾身命を投げうってこれに抗って貫徹すること 八、 仇は恩をもって報じ、人の悪しきは先ず我が悪しきと思うこと 九、 禍福は皆我が行ないにより来ると知るべし、故に後悔あるときは、これに代わる善を行なう 十、 艱難より来る安楽でなければ甘んじる事なく、天然のたのしみを楽しみて、自ら求めて楽しむことなし 十一、正直にして人を疑うことなく、人に欺かれても、人を欺く事なし 十二、心は活発で憂鬱になることなく、百事(どんなことも)理(神)を恐れて人を恐れる事なし 十三、我は神一条の道に専念して、全家の和合を謀り、全家愛心をもって第一の基とする この誓文の決死の実行にもかかわらず、祖母、父が出直すことになりますが、教会設置の方は翌明治二十三年六月十日付で大阪府からの認可がようやく下ります。それから氏の本格的な神一条の信仰信念に基づく、不退転で熱烈な信仰がさらに燃え上がり、明治四十一年十一月二十七日の一派独立の認可やその他の道の上の獅子奮迅の活躍、大教会の理の栄えを見せて頂く事になります。 本教の草創期にともに中心となって活躍した前川菊太郎、橋本清が前橋事件を引き起こし、飯田岩次郎が安堵事件によって免職され、失脚する中、揺るぐことない信仰を貫かれえたのも、この誓文ににじむ神一条の不動の信念とたすけ一条の理の御用によってであると思わせて頂きます。 「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」(『逸話篇』三九) 「さあ〜〜、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」(『逸話篇』二十一) 前のお言葉は自宅に入った泥棒を偶然見つけ、盗難を免れた西浦弥平さんが御礼を申し上げたときに、教祖が仰せられたものです。この意味については常識を超えていますので理解がむつかしく、様々な解釈がこれまでになされています。 「難儀にあわずにすんだことだけを喜んでいるようでは、まだ信仰の入り口にも達していないので、たんのうはまだできていない」という見方や「これは本当の御守護とは何かという、常識的判断をこえた次元のものの捉え方、悟り方で、個人のたすかりではなく、人間全体のたすかりを視野にいれた考え方であり、人類全体のたすかりとは、全体意識である宇宙意識に根ざしたものである」という極論もあります。前者については難儀にあうことがなぜ結構なのか、説明できていませんし、後者では盗難も正当化され、救済が宇宙意識とどのように結びつくのかわからず、論理の飛躍があるように思われます。 山本利雄氏は『いのち』の中でつぎのような解釈をしています。長くなりますが引用しておきます。「この考え方は、在来の道徳的な善悪の評価を言っているのでは断じてない。泥棒に取られなかったと喜んではいけない。それは悪である。ほしい人にもっていってもらうことこそ善である、などと言っているのでは決してない。泥棒に取られずに済めば、誠に結構である。素直に喜ばしていただく。泥棒にもっていってもらえば、もっと結構である。これも素直に喜ばしてもらう。一切が結構づくめである。いかなる中でも陽気ぐらしができるように創られている。ここに、創造の意志、陽気ぐらしの原点がある。ここに、先に述べた、たんのうの世界がある。」(五二〇頁)これでは「もっと結構」の意味が全くわからず、何の説明もしていないことになります。 問題は盗難にあうことがなぜ結構なのか、ということですが、これは盗人を喜ばせたからでは決してありません。盗みは欲のほこりを積む行為で、許されるものでは断じてありません。 『正文遺韻抄』に次のような「盗賊の入りたる咄」というお諭しが載せられています。 「凡そ世の中に、好んで人の物を盗るものはあるまい。貧しさのあまり、心をわかして盗むのであろう。気の毒のものや、まず盗る者の身にくらぶれば、盗らるるものは、あるからとらるるので、喜ばねばならん。まして人間は、前生に如何なる借りがこしらえてあるやら、また前生で如何なる事がしてあるやらわからねば、今前生でかりた物をかやすとおもへば、なにもくよ〜〜思ふことはない、また天道(神)は見どしてあるときけば、もし之(これ)が返したのでなく、この人に貸したのであるなら、いつしかかへってくるときがあるに違いない」(二九頁) 教祖のこのお諭しの中に三つのポイントが示されています。まず盗まれるのは、物があるからで、それを喜ぶこと、次に盗難にあうことは前生の因縁から考えると、前生での借りを返すことになり、これによって前生において積み重ねてきた天借の返済ができること、第三点は前生の借りがないときには、盗人に貸したことになり、将来返してもらえる、このように盗難の節をうけとるとき、初めて教祖のお言葉の意味がよくわかるのではないでしょうか。教祖は盗人に慈悲の心を抱かれるとともに、節を見せられる当人にたいして自らへのさんげ、前生因縁をさとり、反省することによって、たすけ一条の心になり、本当の意味でのたんのう、陽気ぐらしができるようになることを「もっと結構」と仰せられたと思われます。 次に『逸話篇』二十一の「結構」について考えてみましょう。 教祖は山中忠七さんの持山が大雨のため崩れ、田地が土砂に埋まるという大節に対して「海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで」と言われています。一見しますと「後は結構」とのお言葉から、後になると結構になるが、今は結構でない、とうけとれますが、はたしてそうでしょうか。もしそうなら「たんのうせよ」というお言葉は、単なる忍耐、我慢ということになってしまうでしょう。おさしづに堪忍(たえしのぶ)という言葉があり、積極的な意味を持っています。 「堪忍というは誠一つの理、天の理と諭し置く。堪忍という理を定めるなら、広く大きい理である。」「心に堪忍戴いて通れば晴天同様、一つの道と諭し置こう。」(M26.7.12)堪忍は強い意志を必要としますが、たんのうの前段階にすぎないと思われます。 『教典』に「いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなって、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれ」(六九頁)と明示されていますが、ここから考えますと、山中さんの大節そのものが、心のほこりを払う「親心のあらわれ」であり、それゆえに結構である、と悟れるのではないでしょうか。節によってほこりが払われ、後々さらに結構になっていく、と教えられているように思われます。「海のドン底まで流れて届いた」ものは、土砂、大木のみならず、それについていた心のほこりでもあると思われます。 盗難の節についても、物を盗まれることによってなくなるのは、物そのものとそれについている心のほこりでもあることを「前生でかりた物をかえす」というお言葉は意味していると悟れます。前生に「借りがこしらへてある」とは、天借を積み重ねてある、つまり心のほこりが多くある、と考えますと、「借りを返す」ことは、心のほこりを払うことと考えられるからです。 このように考えますと、盗人は相手の心のほこりを払う、たすけをしているように思えますが、そうではなく盗人は相手の心のほこりを逆に自分の方へひきよせ、そのほこりをつんでしまうことになります。つまり盗難のような節においては、ほこりが払われるといっても、ほこりが右から左へ移動するだけで、ほこりそのものが消えてしまうわけではないと思われます。 ほこりの掃除はたすけ一条の道であります、つとめとさづけによってしか払いきることはできませんが、親神は私たちを掃除の道具として使われ、世界一列の心の掃除にかかられています。「さあ掃除や。箒が要るで。沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。隅から隅まですっきり掃除や。」(M20.3.15)「残らず道具、良い道具ばかりでも働き出来ん。良い道具、悪しき道具合わせて出ける。日々の働きから分りて来る。よう聞き分け。」(M34.6.14)「使い良い」「良い道具」とは、教祖の道具衆としてたすけ一条にいそしむ用木で、「悪しき道具」とは相手のほこりは払うが、そのほこりを自らつんでしまう、相手を苦しめ、困らせる人間のことと悟りますと、私たちが「良い道具」になることをめざすだけではなく、親神にとって「悪しき道具」を自分にとっては、ほこりを払ってくれる「良き道具」としてうけとることを「もっと結構」の逸話は教えているのではないでしょうか。 「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。」(『逸話篇』一三〇) このお言葉は教祖が高井直吉さんに対して諭されたものですが、この逸話から人だすけ、救済における大切なポイントをいくつか学ばせて頂くことができます。 まず第一点は、人間というものは生きている限り埃と無縁ではありえないということです。「新建ちの家」とはまだ人の住んでいない家で、このような家にも埃がつもるということは、人間が何もせず、じっとしていても心に雑念が去来してくる、人の住んでいる古い家ともなると、つまり人間が一日中忙しく行動していると、どれだけ多くの埃をつむかわからないということ、また「新建ちの家」は埃のない家ですから、それを聖人君子、悟りを開いた人、解脱した人と考えますと、そういう人でも埃とは無縁ではないことを教えられているように思われます。また「目張り」は外から埃が入らないようにするためのものですから、「目張り」をするということは、人間の心を誘惑する物、財産、名誉、地位等から離れること、つまり出家して俗世間との接触を一切たつことが意味されていると考えますと、「目張り」なしで生活をする、社会において人、物にとりかこまれて生活すると、どれほど多くの埃をつむかわからないということを教えられているのではないでしょうか。 このことは教祖の次のようなお言葉からも理解されます。「わしでもなあ、かうして、べつまへだてゝ居れば、ほこりはつかせんで。けれども、一寸台所へ出ると、やっぱり埃がついてなあ」(『正文遺韻抄』一五二頁)ということは教祖は私たちに、これまでの教えのように、罪を犯さない、執着心をもたない、つまり埃をつまないというような消極的な道ではなく、もっと積極的な人だすけの実践を通して埃を払う、掃除をする道を教えられたと思われます。 従来の教え、例えばキリスト教の新約聖書の山上の垂訓に見られます「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである」(マタイ四章二八)という教えは、「汝姦淫するなかれ」というモーゼの十戒の一つの戒律を不要にするほど、私たちに厳しい自省をせまりますが、このような単に埃をつまないことを求める教えは、「小さな埃は」に示されますように、いかに努力をしても、人間は埃をつみますので、結局はパウロの「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ロマ書七章十九)という嘆息、人生への絶望へと私たちを導かざるをえないように思われます。 仏教では、心の汚れ、煩悩から業(行為)がひきおこされ、生老病死の四苦、愛別離苦、怨憎会苦(いやな人に出会う苦しみ)求不得苦(望むものを得られない苦しみ)五陰盛苦(心身全体の苦しみ)の四苦を加えた八苦が生じると教えられますが、出家して深山幽谷に入り修行しましても、我が身、我が心から離れることが出来ないかぎり埃をつまないことはほとんど不可能で、業は宿業へとかわり、宿命論となって、救済はこの世においては不可能で、あの世、彼岸でしか成就されないということになります。 結局教祖は、人間はいかに努力しても埃とは無縁ではありませんので、「小さな埃は」によって、私たちが現在つみつつある埃、これまでつんできた前生からの埃にとらわれ、その前に立ち尽くし、絶望するのではなく、埃を日々どれだけ払っているか、またたすけ一条の心定めによってこれから払おうとしているかが大切であることを教えられたと思われます。 第二点は、おたすけでのお諭しに関してです。高井直吉さんはおたすけに行かれて、身上患いについてのお諭しに困られ、教祖にお伺いされた時に、教祖がお話しされたのが「小さな埃は」であったわけです。 これまで、いや現在でも間違ってされやすいのが、身上患いについての次のような諭しです。例えばガンを患う人は頑固で、周りの人と合わせる心がない、肺病の人は素直にハイと言えず高慢である、というように、00病は00の悪い、間違った心遣いをしているからとか、00の因縁である(因縁であるというだけでは、そうなるのは必然的、当たり前といっているにすぎず、何の諭しになっていません)というような諭しですが、教祖はそのようなお諭しは一度もされていません。それはお諭しが不必要だからではなく、埃についてお諭しをするときは、ある特定の埃を相手にいうのではなく、人間というものは知らないうちに埃をつんでしまうので、埃を日々つまないように、というような埃一般に関する話をして、その人の埃については、その人にこれまでの通り方から反省してもらう、さんげしてもらうことによって、真のおたすけができるからではないでしょうか。 特定の埃を相手に直接いうことは、相手を責めることになり、かえっていずませてしまうことになると思われます。間違った諭しをしても、御守護いただける時もありますが、それは御恩報じの行ないや人救けによってであって、諭しそのものによるわけでは決してありません。この点に注意をしないと、「黒いカラスは白い」と言われても、親の声を聞け、というような誤った仕込みがはびこることになると思われます。諭しをする人は、日々心を澄み切らせる努力をし、相手の人に勇んでもらえるような諭しができるようになることが求められているのではないでしょうか。 第三点は、おたすけ人の真実に関してです。高井さんはお屋敷から三里離れた所におたすけに行かれ、お諭しに行き詰まって一度お屋敷にもどられ、教祖にお伺いして、再びおたすけに行かれています。つまりおたすけのためにお屋敷と相手の家を二往復、約四五キロ歩かれ、丸一日を費やしておられます。このなんとか相手の人にたすかってもらいたい、そのためにはどんな苦労もいとわないという真実に、親神が働いて、相手が「よくわかりました。悪い事言って済まなんだ」と詫びを入れて信心するようになり、身上の御守護を頂かれたと悟らせて頂きます。 このように考えますと「小さな埃は」の逸話は、おたすけ人も埃の多い人間であることを常々反省させるとともに、諭しによって相手を責めることなく、勇ませ、真実をつくすことによって真のおたすけができることを教える逸話でもあると受け取ることができると思われます。 『明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた。教祖は前日に、「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように」と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。』(『教祖伝』一二八頁) 明治八年に初めて「かんろだい」(これについては稿を改めます)を据える場所が明示されることになりますが、教祖はそれ以前にも「ぢば」を暗示するお言葉を述べておられます。 嘉永六年母屋取りこぼちの時に、教祖は「これから世界のふしんに掛かる。祝うて下され」と言われますが、母屋の中の北西にある座敷の床下に「ぢば」があり、母屋の取りこぼちによって、「ぢば定め」ができ、世界のふしんをするための、つとめができるようになることが予見されていたと思われます。 また元治元年のつとめ場所のふしんの時に、教祖はたすけられた御礼に御社の献納を申し出た本席さんに、「社はいらぬ」、「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない」と仰せられています。「建家」とは人間の住む家と考えますと、「一坪四方」とは神聖なもの、神の鎮まる場所で、「ぢば」のことと考えられないでしょうか。 現在据えられている「かんろだい」の真上に一間四方の天窓があり、「かんろだい」は約一間四方を花崗岩の延石により四角に区切られ、その中には那智黒の黒石がしきつめられ、その外側は白い小石がしきつめられています。「一坪四方」によって「ぢば」、「かんろだい」、つとめが暗示されていると考えられます。 明治六年、教祖は本席さんに、かんろだいのひな型の製作を命じられています。現在の十三段のかんろだいではなく、直径(さしわたし)約三寸、長さ六尺の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ三寸の六角の板のついたもので、しばらく倉に納められますが、ぢば定めの後、こかん様の身上お願いづとめに当たり、「ぢば」に据えられ、以後それまでの御幣にかわる礼拝の目標(めど)にはじめて定められます。しかし「ぢば」の意味については、「元初まりの話」等によって明治十四年以後詳細に教えられるようになります。 では「ぢば」とはどのような場所でしょうか。「元初まりの話」によりますと、「このよふのほん元」(六、56)「いさなきいゝといざなみのみのうちよりのほんまんなか」(十七、6)、「にほんのこきよ」(十七、8)つまり種(いざなぎ)、苗代(いざなみ)によって最初の宿し込みがなされた元の一点で、人間をはじめとする生命あるすべてのものの故郷であると教えられます。 「みのうちよりのほんまんなか」については「夫(それ)ヨリかんろふ台の処が、魚ト巳ト体のしん。つとめ場所の処が、かしらとなり。」(『根のある花、山田伊八郎』六三頁)という神様の仰せがあります。つとめ場所の南の少しはなれた所に「ぢば」があり、つとめ場所に頭をおき、北枕に西向きに寝て、「ぢば」を体の芯(「へそ」という説もあります)にして宿し込みをされた、魚は「くぢら」(鯨)(前掲書、同頁)と説明されていますが、これは親神の目に見えない広大無辺で複雑極まりない働きを、当時の人々に具体的なイメージでわかりやすく説明されたと思われます。 ここで注意しなければならないことは、夫婦のひな型、生命の生みの父親、母親はいざなぎ、いざなみのみことですが、厳密に言いますと「うを」(岐魚)に「しゃち」(つきよみのみこと)を仕込み、月様(くにとこたちのみこと)が入り込まれて男ひな型種、「み」(白ぐつな)に「かめ」(くにさづちのみこと)を仕込み、日様(をもたりのみこと)が入り込まれて女ひな型苗代としてのそれぞれのお働きをされる点で、このような夫婦によって、三日三夜に九億九万九千九百九十九人(この数字の意味については稿を改めます)の子数の人間の宿し込みがなされることになります。 また「ぢば」はあくまでも宿し込みの場所であり、三年三月留まってのちに、産みおろしは別の場所にて(この場所についても稿を改めます)七十五日かかってなされます。それから親神による気の遠くなる年数にわたる並大抵でない御苦労によって人間が誕生することになりますが、「ぢば」はこのような意味において聖地ということができます。 ところで「ぢば」は、「天理王命の神名を授けられたところ」(『教典』四三頁)とも教えられますが、これは何を意味するのでしょうか。「ぢば」において天理王命が鎮まり給うということは親神天理王命の働きが「ぢば」に限定されるという意味ではなく、「たん〜〜となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(三、40,135)から分りますように、親神の働きは世界の隅々に及んでいますので、「ぢば」とは人間の単なる故郷であるだけではなく、現在の人間の生命の根源、その理をうけて、たすけの与えられる場所でもあり、この点において、他宗の聖地、霊地との根本的な相違があります。 「ぢば」が現在の人間の生命の根源であることを、さらに詳しく考えますと、人間の創造とは太古の昔の話ではなく、今現在においても行われているということです。諸井慶徳氏は次のように説明されています。 「この持続すなわち一見保存に外ならぬかのごとく思われるものも、実は神の不断の創造により、連続的生産によって行われるものでこそなければならない」(『著作集』第六巻九四頁)難解な表現になっていますが、一切のものが今存在している、存在を許されているのは、「神の不断の創造」によってであり、「元の理」で説かれている一見過去の物語のように思われる親神の働きが、今、ここにおいても連続して及んでいるということです。親神は時間を超えながらも、時間の中で、時間とともに働かれていますが、その働きの様式が、かぐらづとめによって示されているわけであります。
「さあ〜〜ちゃんと仕立てお召し更え出来ましたと言うて、夏になれば単衣、寒くなれば袷、それ〜〜旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。」(M・23, 3,17)教祖は明治二十年陰暦一月二十六日に現身を隠されますが、今も元のやしきに留まられ、世界たすけに存命でお働き下されています。お姿は見えませんが、「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。」(M・29,2,4)、「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。」(M・20,2,18)と仰せられるように、目に見える具体的なお働きを、赤衣を着られ、されていると、とはっきり言われています。 教祖はおふでさき第六号を明治七年十二月から書き始められ、この中で、これまで使ってこられた神という文字を月日に換えられ、「このあかいきものをなんとをもている なかに月日がこもりいるぞや」(六、63)と教示されるとともに、十二月二十六日から着物も足袋も赤一色のお召し物を召され、自ら月日のやしろであることを、お姿にもお示し下さるようになります。またこの日に身上だすけのためのさづけ(『教祖伝』百二十四頁)を四名の者に渡されますが、赤衣を召され、直後にさづけを渡されたのは、さづけは単なる祈祷やまじないのようなものでは決してないことや、さづけによるたすけの主体はあくまで教祖、月日であることを示されるためと思われます。 また「たん〜〜と六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ」(四、5)と示されますように、明治七年六月より、お召しおろしの赤衣を「証拠まもり」、おまもりとして広く人々に渡されるようになります。「証拠まもり」は現在でも十五才以上であれば本人が、十五才未満の小人は親が代わって頂く事が出来ますが、渡されるものは同じものではありません。どちらもお召しおろしの赤衣ですが、十五才以上の方は赤衣を三寸四方に切り、これを三角に折って縫い、中に神という字の書かれた五分のきれが入っています。この意味については「此の三寸四方という理は、元ない世界、ない人間をお宿し込み下された元の地場、是が四方正面の屋敷である。それで三寸四方に切ってある。又、この三寸という理は世界中ない人間を元此の屋敷でいざなぎ、いざなみの命様を種苗代にして其の胎内月日の心入り込んで、三日三夜に宿し込み下された理を以て、三つ身につくと仰しゃる。又五分のきれに神という字を書いてあるは、人間は生まれる時には、五分五分と成人して、神様の御守護で五尺の人になったのである。」(『根のある花、山田伊八郎』百五十一頁)と説明されています。 小児のおまもりは二寸に一寸二分の赤衣を四角に縫い、中に「む」という字を書いた五分のきれが入っていますが、この「む」の意味については分りません。大人、小人の二種類のおまもりは、それぞれ「悪難除けの守り」、「ほうその守り」とも言われますが、どちらも存命の教祖のお働きを頂ける、最も身近で大切な二度と頂くことの出来ないもので、当人が出直しても、内々の宝として祀るように教えられています。 ところで『教祖伝』百五十七頁に「お召下ろしの赤衣で作った紋」という言葉があります。教祖は明治十四年当時五才のたまえ様に「子供は罪のない者や、お前これを頒けておやり」と仰せられ、居合わせた人々に頒けさせられますが、これは何のための紋でしょうか。『正文遺韻抄』に次のような記述があります。「明治十四年、増井おりん様を、はりのしんとして、山沢おひさ様と両人に、十二の菊の紋を拵ふ事を御命じ被遊、七十五人の人衆の印として、御下げになりたる事あり」、「多くの人がおはりすれば、誰が人中ともわからぬ程に、明日は人中の印を渡す」(百四十九頁)この「人中」を人衆と解し、「七十五人の人衆」をつとめ人衆〔かぐら十人、鳴物九人、手おどり三十六人、がくにん二十人で合計七十五人となりますが、「がくにん」については「学人」「楽人」などの文字を当てて、雅楽人、事務をとる人或いは「代理をつとめる人」(二代真柱様「ひとことはなし その三」等の解釈があります)と受け取りますと、親神様、教祖のお目にかなった人をつとめ人衆に決められ、その目印として「十二の菊の紋」を渡されたのではないでしょうか。又たまえ様を通して渡されたことには、子供心は純粋で、ねたみやそねみの大人の心を引き起こしにくくするという教祖のお心配りが感じられます。 この「十二の菊の紋」はさしわたし三寸で、赤地(赤衣と思われます)に十二弁の菊の模様に白糸を縫い付けたもので、「はりのしん」(針の芯)の方だけが作ることを許され、数十名の人々に渡されたようですが、教祖が「持ちて居られる者と、持ちて居られぬ者とあるで」と仰せられたように、頂いても、身上をみせられ、すぐに返納した人や失った人も多くあったようです。 また明治十六年の雨乞いづとめの時、この紋を背中に縫い付けたおつとめ着を着て、警察に没収された人もあり、その後も保存できた人はかなり少なくなったと言われています。つとめ人衆は、かぐら、鳴物、手おどりの順序で役割が決められますが、女鳴物の三名(胡弓上田ナライト、琴辻とめぎく、三味線飯降よしゑ)をのぞいて、かぐら十人、男鳴物、手おどり、がくにんの人衆については、氏名は定かではなく、決められてもその通り必ずしもつとめられたわけではなかったようです。つとめ人衆には、まだ出生していない人もいて、代理も教祖のお許しがないとできない以上、教祖御在世中は、つとめ人衆が完全にそろって、つとめられたことはないように思われます。 教祖が現身を隠された明治二十年陰暦一月二十六日のおつとめは、かぐらは九人が男性、手おどりは六人とも男性、鳴物は琴、三味線、鼓しかなく、琴はたまえ様がつとめられています。「十二の菊の紋」の有無や教祖が鳴物の人衆を決められないままで、つとめられたことが原因となっているのではないでしょうか。 私たちは現在お召し下ろしの赤衣をおまもりを通して頂いています。おまもりは身を安全に守っていただけることは言うまでもありませんが、存命の教祖のお働きをいただいてお守りいただけるわけですから、常に教祖が存命で肌身はなれず付き添って下さっている、教祖と日々共に歩ませて頂いている、教祖のお供をさせて頂いていることや、求められているたすけ一条の心を常に忘れることなく日々通らせていただくことが大切であると思わせていただきます。 『その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。』(『逸話篇』八十二) これは明治十四年かんろだいの石出しが行われたときの逸話で、その年に二段までできた石造りのかんろだいは翌年五月十二日官憲によって、没収されることになります。かんろだいの変遷について、まずみてみましょう。 「めつらしいこのよはじめのかんろたい これがにほんのをさまりとなる」(二、39)おふでさき第二号は明治二年に書かれますが、ここにはじめて「かんろだい」の文字が見られます。明治二年にはまだ製作されていませんし、据えるべき場所である「ぢば」も明らかにされていません。しかしこの時点で、否もっと以前からすでに「かんろだい」を芯とする世界だすけのためのつとめの具体的な構想があったわけです。 明治六年教祖は本席さんに、ひな型かんろだい(寸法、形はNo.27「ぢば定め」で既述)の製作を命じられ、明治八年こかん様身上お願いづとめに当たり、はじめて「ぢば」に据えられ、明治十四年頃まで礼拝の目標(めど)とされます。しかし「ぢば」に単に竹柵を立ててあったという説もあり、確認する資料は発見されていないようです。(『ひとことはなし』その二) 明治十五年、前年秋に二段まで完成した石造りのかんろだいは、五月十二日、官憲により没収されますが、この節は「子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るから」(『教祖伝』二三八頁)で、起こるべくして起こった節と考えられています。(この節の意味については、No.7に説明しています。) 明治十五年かんろだい没収以後、直径三,四寸の票石が、高さ一尺位積み重ねられ、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた。」(『教祖伝』二三九頁)といわれています。 その後、明治二十一年以後板張りの台が二重に重ねられ、かんろだいの代わりとして使われていたようです。 そして教祖五十年祭(昭和十一年)、立教百年祭(同十二年)の両年祭を目指して造営された、昭和普請の建設と共に、親神様の目標(めど)たる社が撤去され、真座を設け、教祖のお教え通りの寸法の木造かんろだいがはじめて「ぢば」に据えられ、その標識となります。木造のゆえに、ひな型かんろだいと称せられています。 では、このかんろだいは一体何を意味するのでしょうか。 かんろだいは「ぢば」の標識であるとともに、かんろ(甘露)を受ける台とも言われています。また『教典』には「人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。」(十七頁)と説明されています。またかんろだいは「どこにもない、一つのもの、ところ地所どこへもうごかす事はできないで」(M24.2.20)といわれ、「ぢば」をはなれては理のないものと教えられています。おふでさきでは「にほんのをさまりとなる」(二、39)「にほんの一のたから」(十七、3)「にほんのをや」(十、22)「にいほんのしんのはしら」(八、85)等と説かれています。 かんろだいの寸法の数字については、正六角形の六は「六台初まりの理」、「身の内六台の理」,三は三日三夜の宿し込みの理、三年三月留まりた理、八は八方の神様のお働きの理、一尺二寸(十二寸)は、をもたりのみこと様の頭十二の理で、十二は一年が十二ヶ月、一日が十二刻であるように、全体的な秩序、完全性を表わす聖数とされています。 十三については「十分身につく」(『逸話篇』一七三)、十二で完全な姿の上に十三段目が置かれることによって、生命の新しい誕生が、十三という数に含意されているという解釈もあります。 かんろだいは十三段高さ八尺二寸の台で各台に径三寸深さ五分のほぞが、上から下へはまるようになっていますが、その各段のそれぞれの意味については、諸井慶一郎氏は『天理教教理大要』のなかで、次のような悟りを紹介しています。 まず最下段(正六角形、径三尺、厚さ八寸)は元初まりに親神様が御苦労下された、その伏せ込みの理、第二段(同形、径二尺四寸、厚さ八寸)は教祖が立教以来、道のために御苦労下された伏せ込みの理、最上段(同形、径二尺四寸、厚さ六寸)は存命の教祖のお徳の理、三〜十二段の十段(同形、径一尺二寸、厚さ六寸)は道の子の理で、日々月々年々のつくし、はこびの伏せ込みの理、十段六尺は、五体満足な人間に徳がついて、心の内造りのできた、ろっくの人間に成人した徳の姿、道の子が親神様、教祖の御苦労の伏せ込みをうけて、道につくしはこぶこうのうの理、つまり徳の姿で、十分その徳を積み重ねる理と解されています。 また最下段、第二段、最上段の台(教祖が現身をかくされた時点)は石造りの台としては理の上からはすでに出来上がっている、三段から十二段は積み立てるもので、明治十四年の時点では、まだ伏せ込みの理がなかったから、最下段と第二段の二段までしか出来ていなかったと考えられています。また真柱様の一代は、道の子の伏せ込みの一代、一台とも解されています。 このように考えますと、かんろだいとは救済のシンボルともいえるもので、親神様の昔も今も永遠に変わらない十全の守護、教祖の五十年の伏せ込み、存命の守護に、私たちの先達の伏せ込み、私たちのこれからの伏せ込みによって救済(ふしぎだすけにとどまらない、究極の病まず弱らず不死のめづらしいたすけ)に浴すことができることを教える台であるといえるでしょう。 「このたいがみなそろいさいしたならば どんな事をがかなハんでなし」(十七、10)この台をかこんでつとめられるかぐらづとめ、その理をうけてつとめられる教会でのおつとめによって、どんな事でもかなえられる、と確約されているわけです。
「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」(『逸話篇』一三五) 「せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや(十三、43)「どんな者こんな者、区別は無い。並んで居る者皆兄弟、一家内なら親々兄弟とも言う。それ世界中は皆兄弟」(M32.8.6) 一列兄弟について考える前に、元初まりのお話の中の子数の産みおろしについてみてみましょう。 「十六年桝井本 神の古記」に次のように記されています。「人かす(数)九億九万九千九百九十九人のうち、やまと(大和)のくに(国)ゑう(産)み(下)しろしたる人げんわにんほん(日本)の地に上り、外ゆ(の)くにゑう(産)みおろしたる人間わじきもつ(食物)をく(食)いまわ(廻)り、から(唐)、てんじく(天竺)の地あか(上)りゆきたるものなり。」、「にんほんの地」での産みおろしについては、奈良、初瀬七日、大和国中四日、山城、伊賀、河内十九日、残るにほん中四十五日、合計七十五日かかったとは記されていますが、「外ゆくに」については何も示されていません。『教典』第三章「元の理」では、第二、第三の宿し込み、産みおろしがあり、この二つの産みおろしの場所については「しょしょゑうみおろしまわり」(十六年桝井本)という記述があります。また三度の産みおろし場所について「一宮、二墓、三原」(「十六年桝井本」)との説がありますが、意味はわかりません。「七十五日かかって、子数のすべてを産みおろされた。」という説明はあくまで、第一回目の産みおろしについてと思われますが、いずれにしましても、五分から産みおろされた子数が一尺八寸に成人して、海山、天地、日月も漸く区別できるようになった、との記述から考えますと、七十五日、地名等の具体的な数字、名前は深遠な内容を少しでもわかりやすくするためのイメージや方便であったのではないでしょうか。 また産みおろされたものは狭義の生命体と考えられやすいのですが、もしそうなら親神はそれまでに天地自然界を創造し、生命体を造り始めるための環境を整えなければなりません。しかし「元の理」では、人間の始まりは、この世、宇宙の始まりで、「五尺になった時、海山、天地、世界も皆出来」たと教えられますように、人間と世界、自然の成人、成長は同時ですので、狭義の生命体と考えることはできません。「どじよふ人間のたまひ(魂)」という言葉もありますので、霊的とも生物的ともいえるような存在のように思われます。 しかし産みおろしの順序の問題や「にんほん(日本)」、「から(唐)」の問題もありますが、これについては、稿を改めて考えてみたいと思います。 いずれにしましても、世界中の人間は、国籍、皮膚の色が違っても、陽気ぐらしをするために、親神によって創造された子供であり、互いに兄弟であることが一列兄弟の意味ですが、一列兄弟には他にも違った解釈が考えられます。 用木で科学者の村上和雄氏は次のように述べています。『私は、生き物すべてが親神様から見れば兄弟姉妹であるということだと思います。遺伝子暗号の基本的なものが全く同じである。遺伝子暗号の解読表が大腸菌から人間まで全部通用するということは、生き物には共通の法則が働いているということ。つまりそれは、共通の親を持っているということ。こういうふうに考えると、この「一れつちきょうだい」という教えは、人類みな兄弟姉妹やという教えをさらに超えるのではないかと思います。』(『科学者が実感した神様の働き』一二七頁) このような解釈は、天台宗の本覚思想(「山川草木悉皆成仏」という言葉で表わされるもので、人間のみならず、全ての生きとし生けるもの、山や川のような無機物に至るまで成仏できるという思想)にも通じるもので、自然環境破壊が進み、生命が軽視され、心の荒廃が大問題となっている現代において正に必要とされる考え方ではないかと思われます。 ところでこのような一列兄弟は、余りにも高尚で遠大なものであるため、抽象的で現実離れしたものになりやすいかもしれません。これに対してもう少し具体的に思える一列兄弟の見方があります。 浄土真宗の開祖親鸞は『歎異抄』第五条において次のように述べています。 「父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」〔亡くなった父母の供養のために念仏をしたことは一度もありません。なぜならすべての生きものは因果の理によって、一度死んでも又生まれかわり、長い前世においては、すべての生きものは、いつかはわが父母であり、兄弟であったということは必ずあると思われるのです。(梅原猛氏の訳)〕 ここで人間から動物への生まれかわり、またその逆の生まれかわりがあるかという問題はありますが、ここでは触れないでおきましょう。今人間から人間への生まれかわりだけを考えますと、人間の誕生には両親が必要です。両親の二人にはそれぞれ二人づつの両親、というようにして、十代前までさかのぼりますと、一〇二四人の両親が、さらにさかのぼりますともっと多くの親が必要となります。そしてその親々その兄弟が生まれかわりしているわけですから、今この世に生きている人の中には、前世私の親や兄弟であった人が無数にいるということになります。 教祖は上田ナライトさんに「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」(『逸話篇』四八)と仰せられていますが、これは教祖がこの世に生まれかわりされているということを間接的に示すものでなく、私たちの身の回りの人間関係は生まれかわりという視点からみると、複雑に入り組んだものであり、今世では赤の他人と思われる人が、前世では身内であったりすることを教えられているのではないでしょうか。 「これからハ月日たのみや一れつは 心しいかりいれかゑてくれ」(十二、91)「この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを」(十二、92)「月日たのみ」といわれる人救けも、生まれかわりに基づく一列兄弟の観点からは、前世親や恩人であった人への御恩返しで、しなければならないことではなく、せずにおれないこととして受け取られ、より勇んでさせて頂けるのではないでしょうか。 |