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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。」(『逸話篇』七五) 「神の方には倍の力や。」(『逸話篇』一一八、三一) 「そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は今だけの事やない程に。」(『逸話篇』一七四) 教祖は『逸話篇』で、このほかにも、六八、八〇、一五二において、お屋敷に帰ってきた人々と力だめし、力比べをされていますが、これは教祖は月日のやしろで、親神の心を御心とされているだけではなく、御身体にも親神が入り込まれていることを示されていると思われます。又親神はこの世を身体として、その隅々にまで守護を及ぼされていますので、人間は親神の前には針の先にも満たない存在にすぎませんが、神の力を人間の倍と控えめに示されているところに、人間の存在を大きく受け止められている親心を感じさせて頂きます。「にんげんはちよほ(重宝)なるもので、よふきゆうさんを見て、そのたなにごともみられる」(十六年桝井本)「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。」(『逸話篇』一六四)ここに示されます本教の人間観は他宗ではみられない独自のもので、陽気ぐらしを目的にして親神の懐住居をしていることを教えられますが、この力は単に物理的な力だけではなく、「今だけの事やない」といわれますように、心の真実という意味もあり、「さあ〜〜実を買うのやで、値を以って実を買うのやで。」(M20,1,13)、人に真実の心があれば、親神の倍の真実の守護があるということを教えられていると思います。 また「倍の力」によって「いかほどのごふてきあらばだしてみよ 神のほふにもばいのちからを」(三,84)に明示されますように、親神の絶大なる威厳、人間の知恵、力、学問、科学の全く及ばない力も教えられています。 ところで教祖は力だめしをされた多くの人々の中で、梅谷四郎兵衛さんに次のような詳しい御話をされています。 〔この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々にせめられて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬ方がましやと思ふた日も有ったで。よる、夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は、三度まで有ったがな、井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〜〜、年のよるのを、まちかねる〜〜、かへれ〜〜」と仰有る。〕(『正文遺韻抄』百三十九頁) このお言葉を前回述べましたように、教祖に人間心を認める教祖成人論ではなく、身投げによって、身体的制約を脱して「存命の理」としてのお働きを表されようとして、親神に引き止められたと解釈しますと、「年のよるのを、まちかねる」の別の見方も考えることができます。『正文遺韻抄』では「年のよるのを、まちかねる」を「一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことは出来んが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年のよるのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」、「八十すぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る」(百四十、百四十一頁)と説明していますが、しかしながら、 このように考えますと、教祖が月日のやしろとなられ、宮池の問題があってから、八十才までの約四十年間が空白になってしまうのではないでしょうか。 親神は教祖に「年をよるのを、まちかねる」といわれることによって、月日のやしろと「存命の理」の間に、ひながたの親としての御道中を間接的に指示されたのではないでしょうか。教祖は月日のやしろとして、世界の人々をたすけるために、口で説き、筆に記して教え導かれられただけではなく、私たちが実行しやすいようにとの親心から、教祖ご自身が身を持って実行され、私たちの先頭に立たれ、日々に実践すべき手本ひながたをお残しくださいました。教祖のひながたは時代、民族の違いをこえたもので、この実践こそが私たちがたすけて頂ける一番確実な道であります。明治二十二年十一月七日のおさしづを断片的に引用させて頂きます。 「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ〜〜のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。ひながたの道通れんような事ではどうもならん(中略)ひながたなおせばどうもなろうまい(中略)ひながたそばにある(中略)」 「ひながたなおせば」とはひながたを実践せずしまいこんでしまうことと、自分勝手にかえてしまうことの二つの意味が考えられます。 「ひながたそばにある」とは本席さんのひながたで「十二下りの止めは大工、これさえ聞き分けたら、苦労したいと言うても出けんが神の守護」(M31,7,14)は本席さんのひながたを実行すれば、難儀不自由はしないと理解することができます。 「細道は通りよい、往還通り難くい」、「世界の道は千筋、神の道は一条」等心すべきお言葉があります。 「存命の理」としての教祖を信じ、ひながたを日々の生活において、つとめとさづけとともに実践させて頂くところに、心の埃が払われ、神様の「倍の力」をいただき、不思議だすけに浴することができると思わせて頂きます。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。」(『教祖伝』二九一頁) 教祖は明治十九年二月十八日から三月一日までの十二日間、櫟本分署にて最後の御苦労を下されます。拘留の理由は心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階でてをどりをしたためと考えられていますが、それは契機でありまして直接的には『御守の中に入れたる文字記してある「キレ」出でしより、其品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる。』(『ひとことはなし』二三三頁)からわかりますように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるもので、明治十七年八月十八日から十二日間の御苦労の拘引理由と同じで、「違警罪第一条第九項」の違反であります。「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たるとみなされたわけです。 違警罪とは明治刑法(明治十五年施行)では重罪、軽罪の下の一番かるいもの、拘留、科料に処せられるもので、教祖の場合は政治犯では決してありません。従って「十九年頃は、日清戦争のために軍国主義が大いに宣伝されていました。その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、国の方針に仇なす重罪人とみなされたのです」(八島英雄『中山みき研究ノート』二七一頁)との見方は全くの見当はずれということになります。 しかし問題は違警罪の教祖が官憲から拷問をうけたか否かで、肯定否定の見方があります。辻忠作さんは次のように記しています。 「其時さし入にゆき居るに巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だ敷く誠に見るも涙の種思ふもかしこきこと事にぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」(『復元』第三一号、四十頁)仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が改宗をせまる折檻によるものかはわかりません。しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。 ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、『「老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった」とさながら自分が咎められているかの様に、力説いたされました』(『ひとことはなし』二四六頁)とも記されています。 教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、「其真の心(ひさ様の)ニ署長初ぢゅんさもみな〜〜かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな〜〜ゆるしてくれたる事であり升」(『静かなる炎の人』一二二頁)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます。 教祖の最後の御苦労を打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません。 イエスの磔刑の様子については、『マタイ伝』二七章に詳細に記されていますが、イエスはユダヤ人の王として、ユダヤ教の正統派であるパリサイ派、サドカイ派の反感を買い、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナの地に政治的危険をもたらす人物と映り、約二年間の伝道はローマの国法にふれるものとみなされ、政治犯としてエルサレム門外のゴルゴタの丘で処刑されたわけです。また直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか)と叫んだと言われています。イエスを「神の子」であるとする信仰は、死後になって初めて弟子たちの間に芽生え、キリスト(救世主)であるとの認識も成立するようになります。 ところで打擲説の認否にかかわらず、教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは「上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。また「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」(『根のある花、山田伊八郎』八一頁)と記されていますが、これをどのように受け取ればいいのでしょうか。 『教祖伝』に教祖の御苦労については「親神が連れて行くのや」、「皆、親神のする事や」、「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」(二九〇頁)と記されています。ということは教祖の御身が不自由になられたのも、親神のされることとなります。 『おふでさき講義』に「十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ」(三、73)は明治二十年に教祖が現身をかくされる御予言である、と説明されています。おふでさき第三号は明治七年一月より書かれたもので、この年十一月大和神社での祭神問答をきっかけにして、十二月に山村御殿への御苦労が始まります。 そして十二月二十六日に四名の者に身上だすけのさづけが渡されます。さづけは「存命の理」に基づくことを考えますと、教祖は現身をもたれたままで、身体的制約のため不十分ではありますが、「存命の理」としてのお働きを具体的な形で示され始めたと考えられないでしょうか。 従って分署から帰られて十二日目の三月十二日のお言葉、「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな」(『逸話篇』一八五)の「その働き」とは「存命の理」としてのお働きで、現身をもたれていることによって、制約されない自由なお働きができないと考えることができます。また分署からお帰りになられた三月一日は陰暦の正月二十六日で、それからちょうど一年後に教祖は「やしろの扉」を開かれ現身をかくされますが、その一年間につとめの急き込みとともに「存命の理」の信仰を確立するための教祖のさらなる御苦労が続けられることになると悟らせて頂けるのではないでしょうか。 最後の御苦労を通して教えられますことは、蝉の抜け殻同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、「存命の理」への信仰、「元の理」によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めできるのではないかと思われます。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「身はかくすが、たましひは此の屋敷に留まって生前同様、万助けをする。此の身体は丁度身につけている衣服の様なもの、古くなったから脱ぎすてたまでの事、捨てた衣服には何の理もないのだから、何処へすてゝもよい」 教祖は明治二十年陰暦正月二十六日に現身をかくされますが、早速に御遺骸をどこに御埋葬するかの問題がでてきます。「御葬式前後」の章に詳しく記されていますので紹介します。 埋葬地について甲論乙駁となりますが、代表的なものをあげますと、一、教祖の御魂とお屋敷とは離すことの出来ない因縁にあるので、お屋敷にお埋めする、二、法律では墓地以外の土地での埋葬は禁じられているので、どこか適当な場所に新墓地を設ける、三、新墓地を願い出てもすぐに許可されないので、御遺骸をお屋敷に安置することができない。まず頭光寺の中山家の墓地へ一旦埋葬し、新墓地の許可があり次第、御改葬する、四、御遺骸を三島村から持ち出すのは三島村の名誉にかけて不都合で、他村(頭光寺は三島村でない)にお墓ができると三島村は潤わないので、火葬にして御遺骨を三島村におくようにする等で、四は「天下一人ノ我恩人、老母ヲ火葬ノ如キ酷葬ニ致シ難シ」との初代真柱様の御意志により一蹴されます。一、二,三の意見は一つにまとまりませんので、おさしづを伺いますと、引用文のような意味のご指示があります。 公刊されているおさしづには、この日(陰暦正月二十八日)のおさしづは載せられておらず、引用文は橋本清の『天理教来歴記事』を典拠としていて、「何処へすてゝもよい」は原文では「埋葬ノ地ノ如キハ何処ニテモ苦シカラズト」となっています。これを「何処へすてゝもよい」という表現にするのはちょっと峻厳で、無礼であるように思われますが、結局このおさしづによって、「御遺骸は頭光寺の中山家の墓地にお埋めするのだ、お捨てするのだと云う事に決定」(前掲書七三頁)ということになります。 『天理教史参考年表』には墓地は勾田村善福寺となっていますが、明治二十五年十二月十三日に現在の豊田山の新墓地に御遺骸が改葬されることになります。 そして御葬儀は二月二十三日(陰暦二月一日)執行されます。その間のことについては「廿六日教祖御帰幽より二月一日葬祭の当日迄六日間遺骸を棺に容れ蓋を放ち置きたるに毫末も臭気なきのみか、御面色は生時に於けるが如く、笑を帯び安眠せらる有様なりし」(「教祖御帰幽の時の御模様」『ひとことはなし その二』七五頁)と記されています。 このおさしづのポイントは、教祖は現身をかくされても、御魂はぢばに留まって、よろづたすけをされている、つまり存命ということで、このことは五年祭の当日御墓参り致しましたもので御座いますや伺のおさしづ、「何もこれ古き処、古きものを脱ぎ捨てたるだけのものや。どうしてくれ、こうしてくれる事も要らん。存命中の心は何処へも移らんさかい、存命中で治まりて居るわい。」(M24.2.22)においても明示されています。教祖の場合御遺骸、墓地は「何の理もない」といわれていますが、これは何の価値も無いということではなく、それらに執着せず、もっと大切な存命に目をむけなければならないことを教えられているわけです。 ところでこの存命は教祖が現身をもたれているときにも使われますので、その意味は決して自明のことではありません。 にんけんをはじめたしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや(八、37) このお歌の意味は『おふでさき注釈』では「元無い人間無い世界をこしらえた親は、今現に教祖として生きて現れている。これが確かな事実である。註 本歌は、親神様が教祖様をやしろとして直き直きお現れ下さっている事を仰せ下されている」と説明されています。教祖は「月日のやしろ」としてこの世にお現れ下さっていることが存命である、としますと「やしろ」とは教祖の御身体ということになるのでしょうか。「月日のやしろ」を平たく表現しますと、生き神様になると思いますが、教祖はどのような意味で神様であられたのでしょうか。 荒川善廣氏は次のように説明しています。『教祖の魂は、永遠の次元においては、親神があらゆる可能性をはらんでいる場所として機能し、また「はらむ」という働き自体が見いだされた場所としても機能しているが、現実の次元においては、親神がすべての現実存在を総合統一する場所として機能している。現実の世界、すなわちこの宇宙は、現実存在の集合体として成り立っているのであるから、すべての現実存在が総合統一される場所としての教祖の魂は、全宇宙的な広がりをもっているといえる』(『「元の理」の探究』百三頁) 荒川氏は「やしろ」とは教祖の魂で、身体は「やしろの扉」に相当すると考え、存命はあくまでも魂においてで、この世が滅びない限り、教祖は「月日のやしろ」であり続ける、とみなされています。ということは教祖は現身をかくされても、もたれていても、この意味での存命で、「存命の理」としての時空をこえるお働きを示されつづけておられるといえるのではないでしょうか。 山本利雄氏は教祖存命について、次のように説明しています。 「教祖の魂は明治二十年以後も教祖殿に存命であるという、単なる魂の連続性のみに焦点があるのでは決してないのです。をやは教祖に存命であります。をやが教祖に存命の姿、それこそ教祖五十年のひながたの姿なのであります。だから私たち一人ひとりが、教祖のひながたの道を自分を捨て切って歩む時、をやは私たち個個一一に存命であり、教祖もまた私たち個個一一に存命なのであります」(『あらきとうりょう』第九九号、二九頁) この存命解釈では「月日のやしろ」としての教祖が見失われ、ひながたを実践する私たちと教祖が原理的に同列になってしまうように思われます。山本氏は月日(をや、教祖)が私たちの体内に入り込むことが存命と理解しているようですが、これはとんでもない誤解であり、「存命の理」、存命の意味を歪めてしまうことになります。 このように見てきますと、存命、「存命の理」は現在の私たちにとっても理解が難しいもので、存命の教祖は私たちがその意味を問い直すことによって、少しでも早く真のたすけ一条の心になることを求められているのではないでしょうか。 にんけんハあざないものであるからに 月日する事しりたものなし(十二,23) このお歌は教祖が今も「月日のやしろ」であり存命であられることが分らない、分ろうとしないことを教えられているのかもしれません。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という」(M.29.2. 4)「影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く」(M.40.5.17) これは「存命の理」を明確に示されたおさしづですが、これを教理的に理解することは当時の人々にとってだけではなく、現在の私たちにとっても、「教祖存命一つ治めさしたは容易やない。これしっかり聞き分け」(M 34.5.25)と示されますように、「月日のやしろ」と同じく困難に思われます。 「存命の理」とは、たすけ一条の心定めをした人の心に教祖がいつもおられる、というような主観的なものではなく、おたすけ活動における具体的、現実的なお働きとして示されるもので、教祖は現身をかくされてからも、元のやしきに留まられ、世界だすけの上にお働き下されている、と教えられています。「教祖幽ニ帰スト雖モ其霊魂ハ冥界ニアリテ守護ヲナシ、殊ニ此屋敷ニ留マリテ万人ノ助ケヲナス」。(『ひとことはなし その2』72頁)この中の「冥界」という言葉は適切かどうか気になりますが、果たしてそのお働き、「存命の理」は教祖が現身をかくされたその瞬間に初めて示されたのでしょうか。 「存命の理」について、「相対的、特殊限定的存在であった教祖が、姿をお隠しになることによって、時間的な永遠性を得られるとともに絶対的、普遍的な存在となられたのである」という見方があります。しかしこれでは教祖は現身を隠されて初めて人間から神になられ、「存命の理」が成立すると誤解されるおそれがあります。教祖が「月日のやしろ」であられたということは、現身をもたれていても、御魂においては、身体的制約はありますが、絶対性をもたれ、時間空間をこえてお働きを示されることができた、この意味で「存命の理」としての立場をもたれておられたのではないでしょうか。 『逸話篇』四四,八八で教祖は増井りんに「親神が手を引いて連れて帰ったのやで」、土佐卯之助に「危ないところを、連れて帰ったで」と仰せられていますが、「月日のやしろ」の教祖と親神はお心において一つですから「存命の理」としてのお働きの具体的な例としてうけとることができます。 いまゝでハみすのうぢらにいたるから な によの事もみへてなけれど(六、61) このたびハあかいところいでたるから と のよな事もすぐにみゑるで(六、62) このお歌は明治七年教祖は赤衣を召され、目にみえる形で「月日のやしろ」であることを示されたと説明されますが、よく検討しますと、「存命の理」としてのお立場を示されたとも解せます。「みすのうぢら」、御簾の内側には社があり、その扉もあると考えますと、神道祭祀では祭のときに社に献饌をして扉が開けられます。そして神を招くわけですが、教祖が現身をかくされるときに、「扉を開いて」世界だすけにでられたことを考えますと、この時も扉を少し開いて「存命の理」としてのお働きを示され始められたのではないでしょうか。 教祖は明治七年十二月二十六日赤衣を召され、すぐに四名の者に身上だすけのさづけを渡されています。「存命の理」の具体的なお働きが、さづけとお守り(お召しおろしの赤衣)等を通して示されることを考えますと、納得できるのではないでしょうか。 十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ (三、73) 『おふでさき註釈』には「このお歌は教祖様が現身をおかくしになることを示されたもので、教祖様御在世中は教祖様を目標として社会の迫害がだんだん激しくなるので、かくては道が遅れるから、教祖様は二十五年の御寿命をお縮めになり姿をおかくし下され,世間の圧迫を少なくして道を弘めるもよう立てをする。それまでに真柱も定まり、かんろだいも建設されるから、皆々の心を澄まして、早く人衆そろえてつとめごしらえに取り掛かるようにせよ、とお諭しになったのである」と説明されています。 このお歌は明治七年のものですので、親神はこの時点で明治二十年の「扉開いて」を決定されていたと考えますと、「扉を開いて」か「扉を閉まりて」か、という神人問答は無意味となるのでしょうか。 明治二十年までの十三年間は、明治八年にぢばが定められ、それからつとめの完成に向かって準備が進められていきますが、それとともに現身の教祖に依存してご守護を期待する、単に親心に甘える信仰から、教祖の背後、根底にある月日親神、「月日のやしろ」としての教祖にもたれる神一条の信仰、「存命の理」への信仰、また「存命の理」の確証であります、さづけの取次ぎによる人だすけの実践という信仰的自立の確立を人々に求められたのではないでしょうか。 それを明治七年から始まります教祖の御苦労をとおして、教祖の御身上を台にして、仕込まれたように思われます。明治十五年の官憲による石造りのかんろだいの没収の意味もこの観点から理解されると思われます。 「さあ〜〜正月二十六日と筆に付けて置いて、始め掛けた理を身よ。さあ〜〜又正月二十六日より、やしろの扉を開き、世界ろくぢに踏み均しに出て始め掛けた理と、さあ〜〜取り払うと言われてした理と、二つ合わして理を聞き分けば、さあ〜〜理は鮮やかと分るやろ」(M22.3.10) このおさしづの中の一つの理は、明治二十年陰暦正月二十六日のことであることはすぐに分りますが、もう一つの理を明治十五年の二段までできた石造りのかんろだいの取り払いと考えますと、ともに信仰的自立、成人を促される親神の子供可愛い故の大節と悟らせて頂くことができます。 泉東分教会発行「躍動の泉」連載 「正月二十六日と筆に付けて置いて」とは、明治二十年陰暦正月二十六日の予言であり、また「取り払うと言われてした理」を明治十五年の二段までできたかんろだいの官憲による取り払いと考えますと、かんろだいについてはその取り払いについて次のように示されています。 それをばななにもしらさるこ共にな とりはらハれたこのさねんわな (十七、38) このざねんなにの事やとをもうかな かんろふ大が一のざんねん (十七、58) このおふでさきについては『教祖伝』に「親神の意図を悟り得ぬ者により、かんろだいの石を取り払われたのは、子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るからである」(二三八頁)と説明されていますが、「親神の意図を悟り得ぬ者」とは官憲であるのみならず、これまで教祖についてきて信仰している人々でもあり、親神が現身をもたれた教祖に甘え、ご守護を期待する信仰から、「存命の理」にもとづくたすけ一条の信仰へと成人させるために、かんろだいを取り払わせたと悟れるのではないでしょうか。 かんろだいの取り払いと立てあって、つとめの第三節が「いちれつすます」から「いちれつすまして」と変更されますが、「いちれつすまして」とは私たちが何もしないで親神、教祖が世界の人々の心のほこりを払って下さるということではなく、あくまでつとめとさづけを中心とするたすけ一条によって、ということで、さづけについては明治十五年から本格的な準備がなされることになります。 「さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ」(M20. 2.18)の「子供にやりたいもの」とは、さづけのことで、「ようやらなんだ」理由はいろいろ考えられると思いますが、子供が成人していないことと、さづけを渡す準備ができていなかったことが考えられます。 教祖は先ず本席さんを明治十五年三月二十六日におやしきに住み込ませ、「仕事場」の立場を与えられます。教祖に代わって時々神の言葉を取り次ぐ立場で、最初は埃っぽい場所でしたが、これを錦の仕事場に清めて、本席と定めて、さづけを渡されることになります。本席定めのおさしづに「やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、今までの昵懇の中である故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたゑで、それに区別がある。(中略)さあさあ本席と承知が出けたか」(M20.3.25)と示されています。 さづけとは「天のあたゑ」で、存命の教祖から頂くもの、その取次ぎによって「存命の理」のお働きによってご守護をみせて頂けるものであります。 さづけの理は、たすけ一条を誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であって、この理をうけて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは相ついで現れる(『教典』二三頁) 「存命の理」のお働きについては、最後の御苦労のあとの言葉からも悟らせて頂けるように思います。 明治十九年五月三日、神様の仰せ並びに飯降様扇伺言葉 「神様の御身のさわり。此耳もきこえず、めもみゑん。こへもでず。是ヲ世界にハ、なんとおもうやろふ。さあ人げんにしてもおなじ事。きびしい(く)はたらく時ハ、戸をしめてでてはたらくやろふ。人が来ルとて、此内ハ留主(ルス)かいなとゆふよふにして、はたらくであろふ。そといでてはたらくとも、内にいてはたらくともおなじ事」(『根のある花』八九頁) 「きびしい(く)はたらく時ハ、戸をしめてでてはたらく」の「戸をしめて」とは、人が来ても留守の状態、教祖の御身体が不自由になられているとき、と考えますと、教祖はそういう状態であられても、御魂は時空を超えて世界だすけに働いておられる、むしろそういう状態の方が身体的制約が少ないので、より自由なお働きができる、と考えることができるでしょう。 「そといでてはたらくとも、内にいてはたらくともおなじ事」の「そといでて」を現身をかくされて、「内にいて」を現身をもたれていて、と理解しますと、教祖は「月日のやしろ」であられますので、現身をかくされてからは言うまでもなく、五十年のひながたにおいても、「存命の理」としてのお働きをされていたと考えられます。 従って最後のご苦労についても、親神が教祖の御身体を台として、「存命の理」とともに月日親神の根源的な守護(「さあ〜〜月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ〜〜あり、それ〜〜ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」で教えられています)を教え、仕込まれたと悟らせて頂けます。 分署での打擲説は、たとえそれが事実としても、「存命の理」、月日親神の守護の分らない、否分ろうとしない私たちへの親神からの厳しい仕込み、ムチとなり、それがわかるようになってはじめて、存命の教祖に心からのさんげができ、本当のたすけ一条の心定めができるようになるのではないでしょうか。 「百十五才、九十才、これも分からん。二十五才不足、どうであろう。これも分からん」のあとに「これから先というは、何を聞いても、どのよの事を見ても、皆楽しみばかり。楽しみや」(M20.2.24)と諭されています。なぜお前たちは「存命の理」が分らないのか、分ろうとしないのか、との悲痛なお嘆きとともに、「存命の理」を信じきり、たすけ一条に勇躍邁進するとき、不思議だすけを次々に見せていただけることを教えられていると確信します。 教祖は現身をかくされても、「月日のやしろ」であられ、その具体的な目に見えるお働きが、「存命の理」で、「月日のやしろ」となられてから、現身をもたれているときにも、現身をかくされてからも変わることなく存在していると悟らせていただきます。 |
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