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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「お口で御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、と三回お撫で下され、つづいて、又、三度、又、三度とお撫で下された。ヤスは、子供心にも、勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。」(『逸話篇』一二九) 教祖は明治七年四名の者に身上だすけのさづけを渡されていますが、御自身はどのようにして、おたすけをされたのでしょうか。 この逸話に示されている明治十六年のおたすけは、明治二十三年九月二十七日に飯降さとさんに渡された「撫でるさづけ」によるもので、「撫でてやるのは分かろうまい。なむ天理王命、と三遍言うて、三遍撫でてやれ。心楽しみ内々ほん心だけ。長らえ尽した理だけや。それで十分効くで、効かすで」と教示されています。 この飯降さとさんは元治元年五月、産後の患いを救けられますが、その時は散薬(ハッタイ粉と思われます)を与えられ、こかんさまの三日の願によるおたすけで、教祖による直接のおたすけはされていません。 ところで教祖は月日のやしろとなられてすぐに内蔵に約三年間ほとんど毎日おこもりになられます。この三年間については、井上昭夫氏が『「こふき」のひろめ』の中で詳細に悟りを示していますが、謎のままで、ひながたの起点を内蔵の三年からとみる文献は見あたりません。二代真柱様は内蔵の中で「月日の思いを練っておられた」、月日親神の「お言葉を人間にどういうふうに伝えたならばわかってくれるだろう」と教祖は考えておられた(『「こふき」のひろめ』三五七頁)と述べられています。具体的にはどのように悟れるのでしょうか。 『正文遺韻抄』に次のように記されています。「神様の仰せにしたがって、黒のおめしものばかりめして、世帯の事には、更におかまひあそばさず、せんこ一本たてゝ、なむてんりわうの命くと、唱へてござった。」(三七頁)、「尤も神憑りの時より、なむてんりわうのみことゝとなへて、教祖様は朝晩おつとめをなされたのでござります。」(五三頁)この「唱名のつとめ」(仮称)はどこでされたか考えますと、母屋の座敷、仏壇の間よりも、内蔵の中とみる方が自然ではないでしょうか。もしそうなら教祖は内蔵の三年間、つとめのふせこみをされたのではないでしょうか。かぐらづとめの地歌は立教から二十九年目から教えられ始めますので、それまでのたすけの方便として「唱名のつとめ」を教えられ、そのふせこみを内蔵でされたと悟れないでしょうか。 『逸話篇』(三、内蔵)に、天保九年「秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した。」と記されています。これは明治七年に渡された息のさづけとお息の紙のことと考えますと、教祖は内蔵において、さづけのためのふせこみもされたのではないでしょうか。 内蔵から出られた天保十二年、教祖四十四才で妊娠七ケ月目に、をびやのためしがあり流産されますが、その時御自身に息をかけられたのではないでしょうか。嘉永七年三女おはるさんにもをびや許しをはじめて出されますが、その時腹に息を三度かけ、三度撫でられ、息と撫でるさづけの取次ぎ方をされています。『教祖伝』には「一心に親心に凭れて居れば」と記されていますが、「ためし」である以上、息のさづけのようなものがあったのではないでしょうか。 又「唱名のつとめ」によるおたすけについては、文久三年辻忠作さんが妹の気の間違いを伺うと、教祖は「ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられ、線香一本消えるまで拍子木をたたいて、そのつとめをするように教えられます。線香を半分にしてつとめたところ御守護を頂けず、「つとめ短い」と御忠告され、仰せ通りつとめて薄紙をはぐように次第に御守護を見せられます。 同じ文久三年飯田善六の子供のおたすけをされますが、どのようにして救けられたのかわかりません。 この「唱名のつとめ」によるおたすけは、数多くの方々に教えられたのでしょうか、『逸話篇』にいくつか散見されます。 「三六、定めた心」では、増井りんがソコヒになって失明しますが、「いんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます」との心定めをして、三日三夜の「唱名のつとめ」によるお願いをして、全快の御守護を頂きます。「針の芯」(赤衣を仕立て、それをお守りに作られる中心となる者)として長年勤められ、九十七才まで長生きされ、出直されるまで針の糸を我が目で通された、と言われています。 「四二、人を救けたら」には「唱名のつとめ」による願いによって榎本栄治郎の娘の気の違いが救けられています。 「七二、救かる身やもの」では泉東初代が教祖から頂いたお水(水のさづけの水かもしれません)を唱名しながら、痛む腰につけることによって、三日目には夢の如く痛みがとれる御守護を頂いています。 「八五、子供には重荷」では松井けいの歯痛が「唱名のつとめ」と茶碗の水を飲んで治まっています。 「一〇〇、人を救けるのやで」では小西定吉が「天理王尊」と書いた紙を床の間に張り、「唱名のつとめ」によって不治と宣告された胸の患いを御守護頂いています。 教祖はつとめとさづけを教えられるまでの方便として「唱名のつとめ」、息、撫でるさづけ等によって、多くの人々を救けられますが、これは教祖のお徳、親心にすがってのおたすけでありまして、教祖は私たちにつとめとさづけとともに御恩報じとして人救けの行為によって、救かっていくことを望まれておられるわけであります。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 『男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、「さあく鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。』(『逸話篇』七四) これは明治十三年九月二十二日の転輪王講社の開筵式(『逸話篇』七三)の八日後の九月三十日につとめ場所で初めて鳴物を入れてのおつとめが勤められた時の様子を記したものですが、男鳴物については稽古もできておらず、何が使われたのか明確ではありません。 女鳴物については、『逸話篇』五二、五三、五四、五五に記されているように、明治十年に琴、三味線、胡弓がそれぞれ辻とめぎく、飯降よしゑ、上田ナライトの三名に教祖から直接教えられますが、男鳴物については原典では「そのうちになりものいれて十九人 かぐらづとめの人ぢうほしいで」(十、27)から鳴物は九つで、男鳴物は六つということがわかるだけです。「そのところなにもしらざる子共にな たいことめられこのさねんみよ」(十六、 54)から太鼓が含まれることが分かりますが、おさしづでは「さあく、琴、三味、出けんく」(M.21.11.11)と示されるだけです。 では男鳴物の六つについては、何によって決定されているのか考えますと、これは教祖のお口を通して話されたものの伝承によるしかありません。 男鳴物について、はっきりとした記述が見えるは、二代真柱様の『ひとことはなし、その三』によりますと、明治二十一年十一月二十九日の教会本部開筵式のときで、それまでは個人が手近にもっているもので間に合わされていたようです。 慶応元年十一月十一日付の大和神社事件の「御請書」には、前年十月二十七日に没収された鳴物として、拍子木、太鼓、鈴、手拍子(ちゃんぽんの小さいようなもの)が記されていますので、鈴以外のものは鳴物として使われていたのでしょう。又幕末期の絵馬や文献に描かれている、おかげ踊り、豊年踊り、大神楽などには、鉦、鼓、笛、数種の太鼓が見られますので、それらが取り入れられたのではないでしょうか。 『ひとことはなし、その三』では鳴物の変遷を四期に分けられています。現行のものと異なるものだけ列挙しておきます。 第一期、創始時代(明治二十一年十一月まで)太鼓は、しめ太鼓、笛はしの笛、すり鉦は手にもって木で打つ。 第二期、制定時代(明治三十年頃まで)明治二十一年四月教会設置されてから、従来の鳴物では貧弱にみえるので、初代真柱が日光東照宮での雅楽の鳴物を参考にして、鳴物の形を改められたようです。 太鼓は台のついたほぼ現行のもの、鼓は雅楽のカッ鼓に改められます。すり鉦は手持ち。 第三期、換器時代(昭和十一年まで)鼓はカッ鼓のまま使われます。三味線が琵琶に、胡弓は弦三本の八雲琴に変更されます。 昭和十一年の教祖五十年祭になって、カッ鼓が小鼓にもどされ、現行のものがはじめてそろうことになります。 ところで明治二十年教祖が現身をかくされるときのおつとめでは、鳴物は琴、三味線、鼓しかありませんが、これはなぜでしょうか。この時のおつとめは初代真柱様の「命捨ててもという心の者のみ、おつとめせよ」との厳命に応えられる人が足りなかった、というような理由ではなく、「だんくと人ぢうそろふたそのゆへで しんぢつをみてやくわりをする」(十、38)と示されますように、つとめ人衆だけではなく、鳴物も勝手にできるものではなく、教祖によって御命を頂いた、許された人しか勤められなかったからではないでしょうか。かぐら、鳴物の人衆の中には、その頃まだ生まれていない方の指名もあったようですが、そのときは代理の方がいないと、おつとめはできませんので、教祖から許された方、この方には徽章(「お召下ろしの赤衣で作った紋」『教祖伝』一五七頁、「十二の菊の紋」『正文遺韻抄』一四九頁)が渡され、おつとめへの参加が認められた、といわれています。二代真柱様は、そのような方々は七十五名であったと推定されていますので、鳴物の手が足りないので勝手に出させて頂くということができなかったことが鳴物が三つしかなかった理由と思われます。 次に明治二十九年四月六日内務省秘密訓令発布後の鳴物に関する変更についてみますと、本部では連日役員会議が開かれ、五月十八日の会議案について二十日おさしづを仰ぎます。おつとめに関しては、第一朝夕のおつとめ今日より第一節は止め、第二、三節のみつとめること、第二、月次祭には御面を据えて、男ばかりで第二節と第三節二十一遍つとめ、次に十二下りをつとめ、鳴物は男ばかりにて、女の分は改器なるまで当分見合わせる、との願いに対して、それぞれ「子供可愛からどのような事情も受け取ってやろう」、「理は一つの許ししよう」とのお許しを頂きます。 このようにおつとめの鳴物もいくつかの変遷を経ることになりますが、おつとめとは「よふきゆさんおとり(踊り)をする事なり。この人じゆう十人、なりものかず九ツもって神をいさめることなり」(十六年桝井本)と教えられますように、神を勇めさせて頂くことが目的と考えますと、鳴物はメロディ、テンポ、リズムが陽気ぐらしの調べになるように、一手一つにつとめさせて頂くことが何より大切であると思わして頂きます。身の内の九つの道具を、陽気ぐらしのため、人だすけのために使うことを九つの鳴物を通して教えられているのではないでしょうか。九つの鳴物と九つの身の内の道具の対応については『おつとめの心』(松本滋著善本社)を参照して下さい。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「ためしやで」、「わしは、今神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。」、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。」(『逸話篇』二五) これは明治五年教祖七十五才の時、七十五日の断食中に、松尾市兵衛宅へおたすけにいかれ、そこで仰せになったお言葉です。教祖は慶応元年の助造事件(稿を改めます)のときも、約三十日間の断食を事前にされています。又明治二年四月末から六月初めにかけて三十八日間の断食をされていますが、これらの断食のひながたはどのような意味をもっているのでしょうか。 他宗における断食を先にみてみましょう。 ユダヤ教では断食は、贖罪、ざんげの行為として意味づけられ、キリスト教ではイエスの荒野における四十日の断食(マタイ伝第四章)が有名ですが、これは悪魔による試練という意味と考えられています。「断食をする時には偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食していることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。」(マタイ伝第六章)神をめどにした断食、修行が教えられているのかもしれません。またイスラム教では現在でもイスラム暦第九月(ラマダーン月)に三十日間の断食をします。日の出から日没までで、水も飲めませんが、夜間の飲食は許されています。単なる宗教上の義務で、断食月が年間で最も食糧の消費が多いといわれています。 教祖の断食については、助造事件の場合、「そのほこりの理が、親様の御身にかゝってきて、この御絶食の御苦労をなして被下たのでありますまいか、乍恐考えられます」(『正文遺韻抄』五八頁)と記され、異端者のほこりを払うための断食と解釈されています。 又明治二年の断食については、矢持辰三氏は、おふでさきは明治二年正月からの御執筆で、人々に並の書き物ではないと印象づけられるために断食をされたと解されています(『教祖伝入門十講』)が、これでは断食は私たちにとってのひながたとはならないのではないでしょうか。 断食は教祖の御意志ではなく、「神様の思召し」によって、と仰せられていますが、この意味は何でしょうか。親神が教祖を試されて、断食後「水を満たした三斗樽を、いとも楽々と持ち運ばれた」のを人々にみせられ、教祖が月日のやしろにおわすことを示されたのでしょうか。これも私たちにとってのひながたにはならないでしょう。 教祖は『逸話篇』六四で、おたすけのため水ごりを取ったり、厳寒に川に浸かり続けていた泉田藤吉さんに「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」と仰せられていますが、ここからしますと、断食はしなくてもよいように思われますが、必ずしもしてはいけないものでもないと考えられます。 東本初代の中川よしさんは明治二十七年十二月昼はおたすけに回り、夜はハンセン病のおたすけのために十八日間断食の上、不眠不休で、夜中の十二時、二時、四時に水行をとってお願いづとめをされ、最後の日に実に奇跡的な御守護をみせられます。ここから思案しますと断食とは親神が働かれるためのたすけの台と考えられ、親神は教祖に「たすけ一条の台」(M32・2・2)をすえるために断食を命じられたのではないでしょうか。 「道の上の土台据えたる事分からんか。長い間の艱難の道を忘れて了うようではならん。」(M34・2・4)この「艱難の道」の一つとして断食が考えられますと、助造事件の前の断食は、親神が教祖の断食を台として円満な解決を図られたと思われます。落着まで七日要しましたが、最後は「就いては、決していまゝでのやうな事はいたしませんから、ただ神様の御名前だけとなえさして被下と、だん〜〜願ひいれたから、唱える丈はゆるしておかうと被仰下て、まづ何事もなく治まって、おかえりあそばされました。」と記されています。 明治二年の断食についても「たすけ一条の台」としての観点から考えますと、親神が「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう」(M37・8・23)と示されますように、「話の台」を明治十五年まですえるために、断食を命じになられたのではないでしょうか。又明治五年の断食も、それ以後のかんろだいのひな型製作(明治六年)に始まるつとめの完成に向かっての親神のたすけ一条のお働きの台としての意味があるのでないかと思われます。 では断食は教祖のひながたとして私たちにとって必要なものでしょうか。 先に述べましたように、教祖は断食は絶対にしてはいけない、する必要がないと言われていないと思います。中川よしさんのようなまねは絶対にできませんが、三日間の断食を食べられない病人のおたすけでする用木は多く、それなりの御守護をみせられることもあると思います。が、問題は断食の行為そのものではなく、心にあります。「人間の誠の心の理が、人の身を救けるのやで」(M21・8・9)「我が身捨てゝも構わん。身を捨ててもという精神もって働くなら、神が働くという理を、精神一つの理に授けよう」(M32・11・3)と教示されますように「誠の心の理」に親神が働かれるわけですから、それは断食とは違う形(例えば、つくし運び、十二下りのつとめ等)であってもいいと思われます。 教祖が断食によって「たすけ一条の台」を教えられたのであれば、私たちはそのひながたにならって、たすけの台、それによって親神、存命の教祖にお働き頂く足場を日々のたすけ一条の御用を通して築かせて頂く事が何より大切であると思われます。「人の事してやるというはこれが台」(M31・6・3)とも教示されています。この台を不動の磐石なものとすることが成人ということで、これによって親神の心通りの御守護が確約されるということができるでしょう。 |
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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ〜〜となると、足はしゃくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない〜〜。」と、親神の御声、内に聞こえて、どうしても果せなかった。」 (『教祖伝』三十一頁) これは教祖が月日のやしろとなられてからごく最初の頃の出来事で、晩年の御苦労とともに、最も多く教話などに引用され、聞く者に共感と涙をさそいましたが、これの解釈については、大別して次の二つが考えられます。第一は教祖成人論、つまり教祖は月日のやしろとなられたときは、まだ人間性を残していて、明治七年赤衣を召されるようになって初めて親神の御心と一つになられたという見方に立つもの。第二は立教以来一貫して神性をもたれ、人間性は一切ないという見方に基づくもの。このほかに、この出来事は教祖五十年祭頃の教祖劇の脚本で、実話ではなく、「作者は死んだ方がましだと思えるような迫害の中を教祖は通られたのだ、と誉めているつもりなのです。しかし、それでは教祖の理論は少しの迫害でも死にたくなってしまう程のものであった、ということを意味していることに気が付いていないのです。」(八島英雄『中山みき研究ノート』)という稚拙で論外の見方や、教内においても教理の整合性、統一性を求める立場から、この問題を実話としない意見もありますが、飯田照明氏は『お道の弁証』において、五つの宮池問題を否定する論拠を取り上げ、検討されていて、この問題は実話であることを認められています。(二二一〜二三一頁) 宮池問題のまず第一の解釈は、復元経典が出される以前においてよくみられたもので、次のように記されています。「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまろうとなされたのであります。ここまで御決心を被遊、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう。」(『正文遺韻抄』三八頁) 親神の思召と周囲の者、とりわけ夫善兵衛様の思いの間に立って苦悩される教祖のお姿に限りない共感を寄せ、多くの人は涙するとともに、神の道を求める厳しさに心を引き締めたわけですが、この解釈は二代真柱様の教祖論からは成立しないもので、人間としての教祖の側面が強調され、本来のお姿が歪められることになります。 これに対して第二の解釈では、教祖は立教以来月日のやしろとして、常に親神の御心で判断され、行動されたと考えられますので、ひながたとしての身投げ、私たちにとっての身投げの意味がわからなくなります。 教祖は月日のやしろとして、親神の思召しを啓示された教えの親であられるとともに、人間救済の先頭にお立ち下され、私たちを導かれるひながたの親でもあられます。「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。」(『教祖伝』三十頁)と教えられますが、身投げはどのように考えても「苦難に処する道」の一つとして、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というジレンマに立たされたときのとるべき行動とは思われません。苦難からの単なる逃避になってしまいます。また教祖が私たちのために演技、芝居をされたとはとても思えません。 宮池の問題は私たちにとってのひながたにならないのであれば、それをどのように考えればいいのでしょうか。 『逸話篇』一八五に「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも必ず思うな。」と記されています。これは明治十九年三月、教祖が櫟本分署からお帰りになられて、しばらくしてから仰せられたお言葉ですが、ここにヒントがあるように思います。「起きてるというと、その働きの邪魔になる」とは、教祖は現身のままで「存命の理」としてのお働き(『逸話篇』四四、八八参照、御魂だけのお働き)があられ、現身はそのお働きの妨げとなるもので、教祖はお寝みになられている時も、「存命の理」としてのお働きをされていた、と考えられないでしょうか。 荒川善廣氏の月日のやしろの解釈(『「元の理」の探究』)をみてみましょう。氏は魂とは心身現象の生起する場所、容器と考え、「やしろ」とは教祖の身体ではなく、魂で、身体は「やしろの扉」に相当すると考えています。従って教祖は「やしろの扉」を開かれる、現身をかくされることによって、「月日のやしろ」としてのお働きは、身体的制約を脱して、完全な生動性を全宇宙的な広がりにおいて、発揮される、とみなされます。 このように考えますと、宮池の問題はあくまで月日のやしろとしての立場で推測しますと、教祖は月日のやしろとなられてすぐに「存命の理」としてのお働きを持たれておられ、身投げによって、身体的制約を脱せられ、月日のやしろから、いきなり「存命の理」としての教祖におなりになろうとされ、それを親神によって「短気を出すやない」、時期尚早として引き止められたのではないでしょうか。 もしその時現身をかくされていますと、ひながたの親としての五十年の道中とともに「存命の理」としての教祖のお働きも、私たち人間に教えられることもないことになります。 荒川氏は、ひながたの五十年について次のような見解を示しています。 『教祖が「ひながたの親」として通られた五十年は、単に言葉を介して人々の記憶にとどめられているだけでなく、たとえ意識されずとも、客体的不滅性として、後続の人々がそこから新たな経験を生み出すための実在的基盤を成している。』(百十一頁)つまり「たすけ一条の台」としてのひながた五十年と思いますが、これも結局は宮池の問題があってはじめて成立してくるのではないかと考えられます。 |
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