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泉東分教会発行「躍動の泉」連載

教祖を身近に 連載 第十三回 「つとめ場所のふしん」

村上道昭 むらかみ みちあき

「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ。」

「一坪四方のもの建てるのやで。一坪四方のもの建家ではない。」「つぎ足しは心次第。」

(『教祖伝』五三、五四頁)

「ふしぎなつとめばしよハ たれにたのみはかけねども」

「みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ」       (三下り目、二ツ、三ツ)

 これらのお言葉は、つとめ場所のふしんに関して言われたもので、私たちにとっても大切なことをご教示下さっていると思われます。

 つとめ場所のふしんの経緯は、元治元年本席飯降伊蔵さんが五月に奥さんの流産後の患いを救けられ、六月二十五日夫婦そろってお礼詣りをしたときに、救けられたお礼にお社の献納を申し出られたことから始まります。その申し出に対しては、教祖は月日のやしろであられますので、断られ、かわりに「一坪四方のもの」を建てるよう指示されます。

 一坪四方とは、一間四方、一坪、二畳のことと思われますが、これは一体何を意味するのでしょうか。「建家ではない」とは人の住む場所ではない、と考えますと、神の鎮まる場所、つまりぢば、かんろだいを意味しているのではないでしょうか。(現在かんろだいは一間四方天窓で、一間四方を花崗岩の延石により四角に区切られ、中に那智黒の美しい黒石が敷きつめられています)教祖は米倉と綿倉をとりのけて、そこに建てるよう指示されますが、その場所のすぐ南側にぢばが明治八年に定められますことを考えますと、その時点で教祖にはかんろだいを囲んでのつとめが想定されていたと思われます。しかし本席さんはじめ他の人々には全くわかりません。「つぎ足しは心次第」とも言われましたので、「居合わせた人々」はお屋敷の建物、特に御幣をおまつりしている教祖の八畳、六畳のお住居の手狭さを考え、小さいながらもお参りの場所を建てよ、との仰せと悟り、三間半に六間、二十一坪のものを建てる心定めをします。そしてさらに本席さんが手間、山中忠七さん費用、辻忠作さん瓦等それぞれ引きうける話合いができます。

 ここに本教のふしんのあり方、ひのきしんの基本が示されているように思われます。

 さて一般の普請は『広辞苑』では元来仏教語で「禅寺で大衆を集めること。またあまねく大衆に請うて堂塔の建築などの労役に従事してもらうこと」又寄進は「社寺などに金銭物品を寄付すること」と記されています。

 つまり普請は頼まれてするものであるのに対して、本教の「ふしん」は「たれにたのみはかけねども」「みなせかいがよりあうて」と教えられますように、自発的な報恩の心でされるべきもの、「きしん」は金銭、物品の寄付に限らないこと、又「きしん」は日々されるべきものであることを教えられたのが、つとめ場所のふしんの一つの大切な点で、教祖は本席さんのその後の通り方によって教えられていると思われます。

 十月二十七日上棟式の翌日大和神社の節が起ります。この節のきっかけとなったのは上棟式当日、めでたい祝い事であるのに、私の推測では教祖は何もされず(嘉永六年の母屋取りこぼちの時は、「世界のふしんに掛る、祝うて下され」と仰せられた人夫に酒肴を出された)干物一尾づつと一、二升の酒が本席さんの奥さんによって出された(『教祖伝入門十講』)のを見て貧弱に思った財産家の山中忠七さんが、自宅に招待して十分なもてなしをしようとしたことにあります。一行十二名は全員三日間食事も与えられず拘留されます。本席さん、山中さん以外の十名のふしんに心を合わせた人々は皆信心をやめ、お屋敷に寄りつかなくなります。しかし本席さんは報恩の念変ることなく、唯一人でもコツコツと毎日仕事を続けられ、秀司先生のふしんの心配にも「何にも案じて下さるな。内造りは必ず致します。」と答えられています。又「この普請が始まると、その最初から、夫婦共々お屋敷に住込んで、普請の上に精魂を傾け尽して来た。そして大和神社の節の後も、人々の信仰にはそれぞれ動揺があったが、伊蔵夫婦の信仰は微妙だにもせず益々心の冴えを示した」(『私の教祖』中山慶一著)とも記されています。

 ところでつとめ場所は翌年の慶応元年に完成しますが、「この普請は三十年の見込み」と言われます。どのような意味でしょうか。「新築成った明るい綺麗なつとめ場所こそ、正しく成人の歩を進めた、心のふしんの姿であり、きりなしふしんへの門出であった。」(『教祖伝』六一、六二頁)ここからつとめ場所という形のふしんはできたが、それに相応しい心のふしんはまだまだであと三十年はかかる、きりなしであるということを教えられているのでしょうか。

 元治元年から三十年後は明治二十七年で、翌年十一月十四日教祖の御普請御許し願いが出されますが、「成人半ばで思案という理出掛けたらどうもならん」と仰せられ「仮屋」の許しだけで普請は差し止められます。明治二十七年、八年頃お道は燎原に火の勢いで伸び広がり、信者数三百万をこえたといわれていますが、心のふしんが進んでおらず、人間思案や御利益信心の息を出ていない人が多かったと思われます。翌二十九年には本教の撲滅を指示する内務省の秘密訓令が出され、大和神社の節をはるかにこえるスケールの大きい親神からの真実の心をみるためし、教内の指導的立場にいる人の仕込みがなされることになります。「たすけふしぎふしん、真実の心を受け取るためのふしぎふしん。」(M23.6.15)このおさしづは「ふしん」は「たすけぶしん」であるがゆえに 「ふしん」には予期しない節を伴いやすいという意味も含んでいるとも受けとることができます。

 ともあれ教祖はつとめ場所のふしん以後「じつのたすけハこれからや」(三下り、四ツ)と教示されますように、たすけ一条の道の根本であるおつとめ、さづけを教えられ始め、その勤修と取次ぎによって心のきりなしふしんを進められますが、教祖の御苦労はまさにここにあったと言えるのではないでしょうか。

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教祖を身近に 連載 第十四回 「第一第三合一節」

村上道昭 むらかみ みちあき

「さあ\/これは使い切れにするのやないで家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで。」

「これを着て、早くかんろだいへ行て、あしきはらいたすけたまへ いちれつすますかんろだいのおつとめをしておいで。」                      (『逸話篇』五一「家の宝」)

 これは村田イエの息子亀松の腕が痛み、教祖の御前へ行ったときに、教祖が仰せられたお言葉ですが、注目すべきことは、ここに二代真柱様が「第一節第三節の合一されたお歌」(『続ひとことはなし その二』)と記されているお歌が明示されていることです。

 これは写本としては明治十四年の大阪天恵組発行『拾弐下り御勤之歌』という私刊本に初めて出てくるお歌で、二代真柱様は「第一節及び第三節の古い形」であったのが、明治十五年のかんろだいの石の没収による「模様がえ」の史実の結果、上の句、下の句にそれぞれ下の句、上の句が加わり、語尾も多少変えられて、現在の第一節「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」第三節「あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」の二節になったとの見解を示されています。(前掲八二頁)

 又永尾廣海氏は「第一節は厳然と伝えられており、第一第三合一節は、むしろ、第三節に替って、信者によって一時期歌われたものであるかもしれない」(『みかぐらうたの世界をたずねて』四八頁)と理解しています。

「みかぐらうた」は教祖直筆のものはなく先人たちによって筆者されたものが現存しているだけですが、不思議なことに初期の写本(慶応三年、筆者山中彦七)から明治十年の写本までほとんど第五節(一下り〜十二下り)のみ、あるいは第四節(よろづよ八首)、五節だけで、第一、二、三節が記されていません。又明治十年以降になると徐々に五つの節が写されるようになりますが、その並び方は第四、五節が先に来るものが多く、明治十七年からの写本では二、三、一、四、五節の順が主流になり、明治二十一年十一月に出版された初の公刊本によって、ようやく現行の体裁をとるようになります。

 第一、二、三節はかぐらづとめの地歌ですので、次にこの三つの節の変遷について考えてみますと、第一節は慶応二年秋に「あしきはらいたすけたまへ てんりわうのみこと」の歌と手振り(歌を唱えるだけのつとめも記録に残されています)を教えられますが、当初は回数は不定で、拍子木を打ちながら、ひたすら親神への祈念を繰りかえすだけであったようです。明治三年第二節の歌と手振りが教示されますが、それ以後第一、二節を一緒につとめられたのか、第二節はかぐらづとめとして教えられ、日々のつとめでは第一節のみが勤められたのか分かっていないようです。

 ところで問題となるのは、第三節で、明治八年に「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りが教えられますが、上の句が「あしきはらいたすけせきこむ」か「あしきはらいたすけたまへ」のどちらであるかということです。矢持辰三氏は前者(『教祖伝入門十講』)、『稿本中山眞之亮伝』では後者として、理解していますが、どちらが正しいのでしょう。

 明治七年桝井伊三郎さんに「かんろだいてをどりのさづけ」が渡されます。これは第二節の手振りのあと「あしきはらいたすけたまへ いちれつすうますかんろだい」を三遍唱え、三遍なでる、これを三回繰りかえすさづけですが、ここに第一第三合一節がはじめて出てきています。そして明治七年十二月奈良中教院から「天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め」と命じられ、天理王命の神名を差しとめられ、翌年ぢば定めをされ、「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを教えられています。ということは教祖は成人させるための一時的方便として第一節を中断して、その上の句を第三節に残して第一第三合一節を第三節として教えられたのではないでしょうか。

「月日よりつけたなまいをとりはらい このさんねんをなんとをもうぞ」(六、七十)

 この意味を天理王命の名前を差し止められ、第一節の中断を余儀なくされたと解釈しますと第一第三合一節成立の理由がよくわかると思われます。『逸話篇』「家の宝」は明治十年六、七月頃の話で、『みかぐらうた語り草』(桝井孝四郎著)にも、明治八年に『かんだいのぢば定めもありまして、おつとめもかんろだい一条になったと聞かせていただいております。すなわち「あしきはらいたすけたまへ いちれつすますかんろだい」とのお手をおつけ下されたのであります。』(三六頁)と記されています。又『続ひとことはなし その二』にも、明治八年「それよりかんろだい一条のつとめとなり、御手十一通り教へなされました。日々のつとめは『あしきはらい、たすけたまへ、一れつすます、かんろだい』というおつとめでありました。」(一七八頁)と教えられています。

 従って第一第三合一節は「第一節及び第三節の古い形」や、信者によって一時期勝手に使われたものではなく、教祖によって一時的に人間の成人の遅々として進まないもどかしさのために教えられたもので、人間の成人の鈍さが、明治十五年の二段までできていたかんろだいの石の官憲による没収という節となって示され、それによってかんろだいを先に建てて人間の心を澄ます方法から、心を先に澄ませ、その後にかんろだいを建てる方法への「模様がえ」が現行の第一節、第三節に変更することによって、なされることになります。しかし「模様がえ」といっても親神の想定の範囲内のことで、それまでの親神のお力にのみ依存する人々の姿勢に対して、人間自らの努力を強く促される親心の現われと思われます。

 しかしその後も明治二十一年十月二十六日の本部開筵式から朝夕のおつとめも現行通りつとめられますが、明治二十九年の秘密訓令により再び第一節は止められ、復活しましたのは、大正五年秋の大祭からで、かぐらづとめ、てをどりの地歌、勤修の受難はその後も続いていくことになります。

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教祖を身近に 連載 第十五回 「ひのきしん」

村上道昭 むらかみ みちあき

「ふうふそろうてひのきしん これがだいゝちものだねや」         (十一下り、二ツ)

「みれバせかいがだんくと もつこになうてひのきしん」          (十一下り、三ツ)

「よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる」         (十一下り、四ツ)

 教祖はつとめ場所が完成した翌年慶応三年正月から八月にかけて十二下りのお歌を教えられますが、かぐらづとめの地歌を教えられるよりも先に、その中で「ひのきしん」という教語とその精神を簡潔にお示し下さっています。教祖の念頭には、つとめ場所のふしん、本席さん御夫妻のその時のつとめ方がおありになったと思われます。

 御夫妻は産後の患いを救けられた御恩への恩返しとして、つとめ場所のふしんに我家のことを犠牲にして、大和神社の節にも動揺することなく耳を捧げられます。奥さんは約三カ月、本席さんはふしん完成後も三年間常詰で毎日お屋敷に明治十五年に住みこまれるまで通われ、御用を勤められたと聞かして頂きます。

「ひのきしん」のひな型を残されたと思われますが、「ひのきしん」には大切な角目がいくつかあります。

「ひのきしん」は漢字表記では「日(霊)の寄進」になると思いますが、寄進は金銭物品の寄付で、社寺造営などの時に一時的に行われるものであるのに対して、「ひのきしん」では「なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ」(十一下り、七ツ)に明示されますように、土持ちも寄進になること、又日々の行ないであることが教えられます。

 物金のない人でも、自分の貴賎、老若男女を問わず実践できるものですが、問題は心(霊)であります。

 教祖は土持ちが寄進の一つであることを単に教えられたのではなく、寄進の本質は欲を忘れた報恩であることを「ひのきしん」によって教えられたのです。ここに「ひのきしん」と世間の無償の奉仕活動との根本的な違いがあります。両者は外からは同じように見えますが、奉仕活動には惻隠の情のような同情、あわれみの動機もあるかもしれませんが、自分をよく認めてもらいたいというような欲の心が無意識に混じることがあると思われます。又一時的で持続することが難しいとも思われます。

「ひのきしん」においては何をどれだけするかは問題とはなりません。「百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る」(M35.7.20)と教示されますように「一厘の心」つまり報恩の心の有無が問題で、その心を寄進することが「ひのきしん」の本質であります。

 では報恩とは何への報恩でしょうか。本席さんの場合、奥さんの身上の御守護ですが、ただ身上事情が救かることへの報恩だけではなく、日々身上をお借りしていることへの報恩が根本にあると悟らせて頂きます。

「やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん」           (三下り、八ツ)

 このお歌の「これから」とは一体いつからでしょうか。『教典』には「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。」(七六頁)と説明されていますが、「親神の恵」を単に身上壮健にお守り頂いていることと受けとりますと、「これから」とは身上の御守護を頂いて元気になってから、という意味になります。それでは病むことは御守護のない姿ということになりますが、「このもとをくハしくしりた事ならバ やまいのをこる事わないのに」(  三、 93)を病気の元は、「このもと」、生命の根源を知らないことから生じる、と解釈しますと、自分の力ではなく親神によって生かされていることが「親神の恵」であることになり、「これから」とはたとえ身上の御守護が頂けなくても、親神によって生かされているという事実、それがお金にはかえられない大きな御守護であるということに気付いてから、ということになるのではないでしょうか。

 つまり「ひのきしん」とは身上事情の御守護への報恩だけではなく、日々生かされている御守護、生かされている大恩〔身上事情の御守護は小恩で、このことを「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(M.34.2.4)の一つの意味として教えられていると思われます〕への報恩であり、それゆえに日々実践されなければならない、否せずにおれないものであります。

「ひとことはなしハひのきしん にほひばかりをかけておく」          (七下り、一ツ)

 このお歌は、にをいがけもひのきしんの一つであるというのではなく、にをいがけ、おたすけも「ひのきしん」の精神、つまり報恩の心で実践されなければならない、と理解しますと、にをいがけとは「にをい」報恩の心、信仰の喜びを伝えることで、それが「たすけ」に外ならないのではないでしょうか。

 報恩の信仰はお道の飛躍的発展がみられた明治、大正時代や現在においても身上事情をお救け頂いた人々にのみ通用するにすぎないものでは決してなく、又たすけ一条の信仰と異なるものでもなく、報恩の信仰こそ、たすけ一条の信仰の根幹にすえなければならないと思われます。

 この報恩の信仰とは、「ひのきしん」の実践で、その形が、土持ち(現在では、ぢばへのつくし、運び)、にをいがけ、おたすけ等のつとめ以外の一切の御用をつとめることになるわけであります。「欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしん」(『教典』七八頁)であり、夫婦そろうて実践するとき、「ひのきしん」はすべての不思議な御守護を頂く根本の種であります「ものだね」、「こえ」となって、「一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる」(『教典』七九頁)ことになるわけであります。

 教祖がつとめ、「元の理」を教えられましたのも、見方をかえますと、「ひのきしん」の精神を私たちに教えられるためで、ここにも教祖の御苦労が偲ばれます。

泉東分教会発行「躍動の泉」連載

教祖を身近に 連載 第十六回 「身上だすけのさづけ」

村上道昭 むらかみ みちあき

「教祖は赤衣を召して、自らが月日のやしろに坐す理を明らかに現わされた上、一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井、と、四名の者に、直々、さづけの理を渡された。」               (『教祖伝』百二四頁)

 教祖は明治七年十二月二十六日初めて赤衣を召され、神から月日へと、おふでさきでの文字をかえられることによって、月日のやしろとしての理を改めて明示されるとともに、四名の者に身上だすけのためのさづけ(元治元年に扇、御幣、肥のさづけを渡されますが、身上だすけのさづけではありませんので、割愛し稿を改めたいと思います)を渡されます。赤衣を召されてから渡されているということは、さづけは祈とうやまじないの類のものではなく、さづけによるたすけの主体はあくまで月日親神であることを教えられていると思いますが、ここからつとめに先んじてさづけによるたすけ一条の道が始められることになります。

 四つのさづけの内容をみますと、まず息のさづけは、親の息を教祖にかわってかけさせて頂けるさづけで、教祖在世中は仲田儀三郎さんと高井猶吉さん、本席時代になってからは梅谷四郎兵衛さん、増井りんさんの四名にしか渡されていないさづけであります。教祖は平身低頭している人の頭から身体中へ、強く長いお息を三度おかけになられ、さづけを渡されます。これを頂いた人は、お息を病人の身体や紙〔お息の紙として御供(ごく)とともに渡される〕にかけることを許されます。

 このさづけはいざなぎ、いざなみのみことが人間産みおろしのときに、産み下ろすごとに、親の息をかけられた(十六年桝井本)理にもとづくもので、教祖在世当時、遠方の信者が身上のためおやしきに帰ってこれないとき、その家内の者が病人が身につけていた着物、下着などを持ち帰って、教祖にお願いして、お息をかけて頂き、それを頂いて帰って病人に着せると鮮やかな御守護を頂いた、と聞かして頂きます。

 二つ目の煮たもののさづけは「にたものじきもつ」のさづけと言われるもので、このさづけは普通のさづけのように取次ぐものではなく、じきもつの御供(ごく)を病人にお下げ下されるさづけです。その御供は白米三合を袋の中に入れて、煮え立った湯の中に、三遍浸し、少しふやけたお米、それがじきもつで、それを保存しておき、病人に、御供として与えられます。このほかに「じきもつのこう水」のさづけもあります。これは山沢良治郎さんに教祖が渡されたもので、清水の中に白砂糖を入れ、さづけを頂いた方が先に三口飲み、その理によって、その水が「じきもつのこう水」になり、これを病人に頂かせます。

「じきもつ」のさづけは松尾市兵衛さん、「じきもつこう水」のさづけは、山沢良治郎さん、山沢為造さんにだけ渡された、と言われています。

 三つ目の辻忠作さんに渡された「さんざいてをどり」のさづけは、現在満席になって頂くさづけで「あしきはらいのさづけ」ともいいます。

「さんざいこゝろをさだめ」(一下り、三ツ)と教えられますように、人間心のない三才心、無邪気な心、親神の御心にかなう素直な心はお道の信仰において一番大切な心であり、この心で取次がせて頂くことによって、不思議を見せて頂けます。三遍を三回撫でる理は、教祖の親心を撫でる理によって表す、三編撫でるのは身につく、六編はろっくに治まる、九遍で苦がなくなる、とも聞かして頂きます。

「たすけ一条、勇める処話を伝え。心発散すれば身の内速やか成るで。病というはすっきり無いで。めんくの心が現われるのやで。」(M20.9.5)このおさしづは山田伊八郎さんに、さづけを渡されるときに示されたもので、さづけによって我身が救かることをはっきり教えられているように悟ることができます。

 ところでこのさづけは「これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ」(M20.2.18)ものと教えられます。この理由は人間の成人の鈍さとこのさづけは慶応二年に教えられた、かぐらづとめの第一節と全く同じで、このさづけはかぐらづとめの理をうけて取次ぐもので、つとめが完成されていなかったことと現身があることによって「存命の理」としての自由なお働きができないことがあるのではないでしょうか。

 四つ目のさづけは「かんろだい」のさづけ

「かんろだいてをどり」のさづけともいわれるもので桝井伊三郎さんにだけ教祖から渡されます。このさづけの取次ぎはかぐらづとめの第二節「ちよとはなし」の手振りのあと、「あしきはらひたすけたまへ いちれつすうますかんろだい」を三編唱え、三編なでる、これを三回繰り返すことは、「あしきはらい」のさづけと同じ取次ぎ方になります。

 尚「あしきはらひたすけたまへ いちれつすうますかんろだい」は明治十五年のかんろだいの石の取払い後は、「あしきをはろふてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」と変更になります。

 このさづけは本席さんが明治二十年三月二十五日、本席になられて初めて、西浦弥平さんに渡されています。本席さんが本席になられる前、十日余り病名のわからない不思議な熱病になられた時、それを聞かれた西浦弥平さんが毎夜おやしきに来られては、かんろだいに本席さんの身上平癒の願いをしておられたそうで、その真実がこのさづけを頂くもとになっていると思われます。

 四つのさづけの他に、本席さんを通じて、水のさづけが渡されますが、これは先に三口飲んで、あと病人に飲ますもので、「人間元初まりの時、三尺まで水中住居、この清水を与える理、又三口飲むは、三日三夜に宿し込みた、この理によって与える」(M20.5.6)と教えられています。