泉東分教会三代会長ご夫妻

5年祭が立教167年8月29日に執行されました

「求めて苦労!求めて不自由!」ビデオ(DVDもあり)記念出版

親会長様(領一先生)、親奥様(菊枝先生)を偲んでアップします。

目 次
村上領一先生語録
泉東初代の入信

私を生かし続けてくださった「村上領一先生語録集」

1、「神殿建設の柱のお供えは、ていていとして茂る大木を神に捧げる事こそ真実である如く、人間のもっとも働き盛りに道一条になるということは、教祖が一番お喜こび下さる」

 41歳と言えば、人間不惑の年と言われる働き盛り、そのような旬に道一条を心定めたことは素晴らしいことです。丁度神殿ふしんをする時に大黒柱をお供えするが、これは老木では役に立たん、今を盛りと聳え立つ大木だからこそ大黒柱として役立つのと同じこと精一杯に努め切らしていただいたら結構だよ。 昭和55年長男の突然の出直しと会社の事情と合図立て合い、いんねんを自覚しての道一条の決意、何か精神的に張り詰めていたわたしに心温まる勇み心をお与え頂いた有り難いお言葉でした。私がものすごくやる気を起こした瞬間でもありました。

2、弟が腰痛で入院しているからお助けに行くように

 渕和に永くお泊まり頂いて毎日にをいがけ実習を行っていた時の事と思います。

「山崎さん、弟が腰痛で入院しているから私の変わりにお助けに行って下さい」

「はい」

誠に恐れ多い事でしたが、≪素直は道の宝≫と申しますので、取るものも取りあえず千葉の病院へ行かして頂きました。とにかく≪おさづけ≫を取次がしていただいて、すぐに帰って来ました。私自身が椎間板ヘルニアで手術までしましたので、島渕分教会三代会長様におさづけを頂き、そのお諭しを改めて実行することを心定めさせて頂きました。長い電車での往復私の心はえも知れない勇み心を感じていました。とにかく 有り難くて有り難くて その思いだけが私の心に残っているのです。

3、良いんだよ それで良いんだよ

 私はそれこそわが身我が家を忘れて真剣に にをいがけ お助けに 奔走していたときにひいた風邪でした。熱にうなされ、

「何故だ!何故こんなに一生懸命やっているのに…どこが悪いんだ!」

私は夢うつつに、神様に問い正しながらうなされていたのでした。すると三日目の事です

「良いんだよ それで良いんだよ」

と親会長様の、あの声が 聞こえて、ほっとして目覚めました。私の心はすっきりとなり、それっきり熱も下がってしまったのです。布団はびしょぬれでした。それ以来今日(立教163年、現在58歳)まで、風邪はひかなくなってしまいました。親会長様が夢に現れて、お助け下さったのです。

4、過ぎたるは及ばざるが如し

 親会長様は渕和にお泊りになって有志の人をにをいがけに連れて歩いてくださっておりました。そんなある日のことです。(家内が地主さんから10坪ほどの土地をお借りして茄子やトマトや胡瓜などを栽培していた頃のことでした。)暗いうちからおいでだったと思います。

「親会長様が畑をしている」

との妻の声に起こされました。親会長様は刈り取り後の稲の束を畝に養生すると畑が元気がなると教えてくださいましたので、前の家の小川さんにいただいて畝に並べておきました。

「おはようございます」

親会長様はもくもくと鍬をすすめておりましたが一言沢山あった稲の束を見ながら

「山崎さん過ぎたるは及ばざるが如しだよ」

と笑顔でその束を減らす作業を続けてくださいました。

6、路傍講演は、援護射撃と同じで、戸別訪問を援護する

 親会長様に連れられて、戸別訪問に回っているときのことです。私は車に備え付けのスピーカーを使って、突然ながら路傍講演をはじめました。

『ご近所の皆様大変お騒がせ致します……………』

戸別訪問から出て来た親会長様が

「路傍講演は、援護射撃と同じで、戸別訪問を援護する」

ニコニコ笑顔でおっしゃったのです。路傍講演も戸別訪問も本当に好きになりました。

7、第1線の生々しい布教の原稿を送りなさい

 私の場合は、柳島の親奥様の親心で単身布教に出させて頂きました。真壁町椎尾駅の近くに部屋を借りて、島筑波分教会の会長様(初代会長三上忠志先生)ご夫妻に丹精していただき、布教をさせていただいておりました。島筑波分教会には毎日参拝させていただいて、悩みを聞いていただいたり、お話を聞かしていただいたり、又一緒に布教に歩かせて頂いたり、天理教布教師として素人の私は、会長様ご夫妻に大変なご指導をいただきました。毎日毎日歩きつづけても、お話を聞いてくださる方は出てきましたが一向にお助けがあがりません。11月の或る日、徒歩おぢばがえりを決意して出発いたしました。全行程完歩することは出来ませんでしたが、これをきっかけに何がなんでもおぢばがえりをすることを心定めさせていただきました。渕和、島渕、柳島、泉東、高安、おぢばと月次祭を必ず参拝させていただく決意もさせていただいたのです。そうしたある月、泉東へ参拝させていただいたときに、親会長様から

「第一線の生々しい布教の原稿を送りなさい」

と言われました。

「はい」

と素直にお受けした後に、

「そうだ、毎月欠かさづ出稿させて頂こう」

それが親会長様からのお声をいつまでも忘れる事が無くなる。そう決意はしたものの、やらなきゃ書けない、いくらやっても成果はすぐには現れない、悟りを書く様になる、それがどんな小さなことでも有り難く感じるような自分に変わって行くのです。そして今では、書くのが間に合わない程の御守護の連続に感激して、机に向かう度に、親会長様のお顔が浮かんでくるのです。親会長様有り難うございます。

8、この車は布教師の下駄や

 退職金が月々に分けられて振込まれていたそのほとんどを使い、背水の陣でワゴン車を購入して、初めて泉東の月次祭に参拝した時に親会長様は

「この車は布教師の下駄や」

と言って励まして下さいました。収入のほとんどを車にかけてしまった私にとって、理を戴いた喜びは筆舌に尽くすことのできない喜びでした。中には、=苦労知らずが= と言うような冷ややかな目で見ている人もいる中でしたから尚更でした。おぢばへ茨城へ栃木へ福島へ千葉へ長野へ毎月の平均使用距離は5,000kmを越えいまだに続いています。最初の購入から14年、布教師の下駄は、既に5足目が活躍中です。道中色々ありましたが、一度として、月々の支払いが出来なかったと言うことはありません。誠に不思議な御守護の連続で、親会長様が下さった理のお言葉のお陰と家族共々喜ばして頂いております。

9、風車ポンプは堺が本場

 第1回天理教少年少女ケニア訪問使節団に思いきって山崎栄慈を参加させました。彼の帰国後の話で

「お父さん、水は出て無かったよ、井戸のポンプが壊れていた」

この話をお伝えした時、親会長様は、風車ポンプ利用のアイデアを下さいました。

「風車ポンプは堺が本場」

と言う事で図面を書いて色々説明してくれました。

ある日親会長様は

「ガリッサの風向きはどんなだ」

色々な方向から吹きます。

「堺は海風が夕方から吹くので一方からの風向きだが、そうか…」

深く考え込んでおられました。そして、翌月に伺った時の事、

「山崎さん日置荘の梶山に頼んだから」

ということでした。

 梶山先生から電話が入って、堺へ飛んで行って、坂口さんの空き地で廻る風車を見た時の事は忘れる事が出来ません。その時の様子は読売新聞大阪版に大きく取り上げられました。

10、募金活動は泉東擧げて行う

親会長様は毎日の布教実践の中で泉北駅でのアフリカ救援駅前募金を実施して下さいました。

「アフリカ救援は『難渋を救いあぐれば病の根を切ろう』とおっしゃる教祖の思し召しの実践そのもの、誰がなんと言っても難渋を救う事こそ教祖のおひながた。募金活動は泉東擧げて行う」

と言って実施して下さいました。その真実のものだねがアフリカの地に生え、今ケニアもウガンダも大勢の方々が神様に縋りはじめているのです。

11、渕和は良くなるよ子達が素晴らしい

 泉東へ参拝する度に繰り返し聞かしていただいた最後の言葉です。親会長様のお言葉を信じ、どんな艱難辛苦も鞭難攻撃も只管にひな形をまっしぐらに歩んで、親会長様のお言葉を生かし切る覚悟です。

5、須らく機関車の石炭となれ

泉東の親会長様が和南布教所にお入り込み下されました。私が39歳のときでした7歳になる長男の突然の出直し、このショックからは、なかなか立ち直れないでいたのです。なんとか成人をと思いましたがそのすべが分からず、とにかく「形だけでも成人を」ということで講社祭りから公認布教所へと手続きさせていただきました。それを知った親会長様がわざわざ大阪堺市から埼玉浦和の当布教所を訪ねて下さいました。

 私どもの系統図は おぢばー高安(大)ー泉東ー柳島ー島渕ー渕和ー和南(布) です。

 こんな末端にまでお入り込み下さったことで感激でした。で、我が布教所の宝にさしていただくために、特別に御揮毫のお願いをしたのです。

 色紙には「喜びの生活」

 そして掛け軸用紙には「須く機関車の石炭となれ」と・・・・・ 先生がお書き下さっているそばでしっかりと見ていたのですが、「須く機関車の」までお書き下された時首を縦に振ってなるほどとうなずきました。

 私はお道の精神を生かした経営、正直屋をお道に相応しい会社として=自然の理にかなった経営=を経営理念にして、又、天理教道友社で許可していただいた、陽気ぐらしを看板に掲げて、ジョイアスライフ正直屋キャッチフレーズに使わしていただいていた頃のことでした。経営計画も樹立し、全社員の先頭に立って率先垂範、社員と共に張り切っていた頃であります。

おっ!そうだ機関車のように全社員を牽引する精神になることだ!と、感激しながら見ていたのです。するとその後に、

「の石炭となれ」

と書かれました。一瞬自分の目を疑いました。ショックでした。元気の出た私の心の中は疑問が広がりました。 石炭になったら燃えてなくなる。欲にまみれていた私はそう感じたまま、親会長様に書いていただいた言葉だけのお礼を申し上げました。

 後日このお言葉の意味が解ってきたのです。それは、その数年後に、深いいんねんの一つの事情から、生涯の夢を託した正直屋を退社することになるのです。物質的にも精神的にもどん底に落ちきりました。そんな中で、すべてを捨て切って、道一条を決意することになるのです。柳島の親奥様(三代会長夫人)のご教示で単身布教に出させていただくことになりました。

 家内の祖母が86才、長女が中学3年生、次女が小学6年生、長男(2男)が小学校3年生、次男(3男)が小学校2年生、3男(4男)が幼稚園年長でした。

「須らく機関車の石炭となれ」

もし私の座右にこのお言葉が無かったら、全くのどん底からの道一条でしたので、折角の単身布教も受け入れることが出来なかったと思います。

あれから20年経った今日、

「須らく機関車の石炭となれ」

この座右の銘が我が家の頭上に輝いているのです。灰に成り切る事が神の護りをいただけることが、はっきりと成って来る理に現わされている日々なのです。

※結構と思われるご守護をいただいているときは喜べる。が、結構でないと思われる、身上や事情が有り難い。それも大難小難でお知らせいただく神様のご守護なので有り難い、そこから成人することができる。

我が身のんねんの自覚があったら、どんなことでも喜べることばかり。

※くにとこたちのみことの理、これが晴天の心、黒いカラスが飛んでもその後を残さない。

泉東に参拝する度に山崎さん山崎さんと声をかけて下さってお教え下さいました。

冬の寒い中も自転車に段ボールで風除けをつけて実動されていた親会長様のお人柄がにじみ出ている写真です。

 11月に和南布教所開設のお許しを戴いて、その翌年の第1回おせちおぢばがえりの団参です。マイクロバスは柳島分教会でお借りしました。島渕の会長様御夫妻(当時若先生)渕和の会長、正直屋の社長、和南のキンおばあさんもおります。振り返ってみますと19年前、私が40才の時でした。

 

村上菊枝先生のお手紙

泉東分教会三代会長夫人 村上菊枝先生

このお手紙は「渕和分教会初代会長故山崎ため御霊様の30年祭」を迎えるに当り、戴いた泉東分教会三代会長夫人 村上菊枝先生のお手紙です。

 お手紙頂きまして有難う御座います 過日会長様のお陰によりまして親会長様にお会いさして頂き、本当に嬉しく思いました。未だに写真に向かってはお話をしています。永い間の夫婦でしたが、今つくづくと思いますと短いように思います。毎日お粥を食べて頂いております。

 渕和分教会の初代様のお年祭との由、ご参拝さして頂きたく思いますが、なんだか身体がだるくて未だに何も手につかづに毎日をブラブラしております。実は50日祭が24日に勤めていただきますので、済まして間がないので、今少し身体の調子をつけましてから参拝さして頂きたいと思っております。悪しからずお許し下さいませ。

 初代様はとてもやさしい人でした。私は今でも思い出します。泉東へご参拝に来ていただいたとき教会へ着くなり「ああ、やれやれ着いた」と言われ、まっすぐに「会長さん奥さん申し訳ありません」の言葉にびっくりした私は「何故と思う瞬間に初代様は「この遠い所をわざわざ東京まで来ていただくことがもったいなくてもったいなくてとても嬉しいことや」と、申されました。その言葉を聞かしていただいた時に、なんと思いやりの深い人やなとつくづく感心致しました。人間は暖かみと優しさ、思いやりを深くせねばいけないと教祖より教えて頂いています。初代様はその通りの人でした。教会にならない内は毎日お魚を売りに歩いていたそうです。村の氏神様をお祭りするのに金持ちの人が3,000円の寄付をなされたそうです。

 初代様は、私は5,000円さして頂きますと、云われたそうです。皆がびっくりしてあの貧乏な人が出来るのかと皆で云われたそうです。それが皆と同じように3,000円出来た時に上の人からもう結構です。と喜ばれたそうです。又一つには、朝づとめが終わると梅干茶を皆に出して下さいました。一つ一つその時の事を思いますと優しいおばあちゃんやなと感無量に思います。

 初代様のお顔ほんとうに可愛らしい優しいお顔目の前に浮かんできます。

 どうぞいつまでもいつまでも渕和の教会をお見守りくださいますようお願いいたします。

                          菊枝

渕和会長様

立教162年11月1日     直筆はこちら

親会長様のお出直し

親奥様からお手紙をいただくことになったのは、親神様の不思議なおはたらきによるものなのです。

 泉東分教会では会長(四代会長村上嗣昭先生)様の「部内一同の交流を図って泉東が一つになってご恩報じの道を歩んでもらいたい」との深い思いから、毎年9月に交換巡教が行われていました。これは部内教会長がそれぞれ他教会にお話しに行くのです。私は真隆分教会(3日)と大草分教会(4日)のご命をいただきました。8月の下旬は親会長様にご推薦いただいているアフリカ救援活動AAAが毎年視察団を派遣しており、主催者である私が帰国するのは、末の31日頃になっていました。帰国早々のことで、色々所用に追われており、浦和を出発するのは2日の深夜ということになってしまったのです。車の運転は毅史に頼んで、夜通し運転してもらいました。大阪堺東の真隆分教会にはぎりぎりの到着、毅史は車庫で休むことにして、駆け込みました。お話も済みたくさんの方々に囲まれて、直会でまごころこもったお食事を美味しくいただきました。真隆の上級の泉浜の会長に道案内をしていただきました。

 泉東分教会にご挨拶に行きました。参拝を済まして、病院へもご挨拶に行かしていただきたいとの思いから、人を探しましたが、どなたもおいでにならず、青年の小松さんがおり、親奥様がおいでです。とのことで声をかけてくれました。今思うと、親奥様はお休みなっておいでだったのだと思います。そんな顔はおくびにも出さず、「山崎さん元気でよう帰ってこられましたな」と明るい笑顔で迎えてくれ、すぐに車に乗ってくれました。自ら病院へ案内して下さったのです。ついさっきまで病院にいたこと、大教会長様にもおさづけをいただいて・・・等々車中で経過を聞かしていただきました。

 病院についてエレベータを上がって降りると私達の姿を見て早く早くと手招きをされています。急いで行かしていただきました。

 もう親会長様のお声を聞くことは出来ませんでしたが、親奥様がついて声をかけられると親会長様は静かに眠りにつくように出直されました。そこには親会長様の子供達と孫達が揃っていました。「入り日よければ日の出よし」親会長様はご自分が講演でお話しされていた通りの素晴らしい感動的なお出直しでした。

 私の勝手で申すなら、「山崎さん来てくれたか後は頼むよ」と待っていて下さったように思えました。色々な方のお出直しに立ち会っていますが、とても爽やかな、そしてやる気のみなぎる瞬間でした。会長様は、「とうとう行ってしまいました」と私は「素晴らしいお出直しですね」と・・・・。親奥様が最初に出されたお言葉が「山崎さん有り難うあなたのお陰で親会長さんをみとることが出来ました」ともったいないお言葉をいただいたのです。