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昨平成14年6月26日の本部月次祭の日、私は渕和分教会の会長山崎先生から、第3回アフリカおたすけ隊への参加のお誘いをいただき、本年1月26日、アフリカへ行くこととなりました。 出発当日、ご本部の春季大祭に参加し、真柱様のお言葉を拝聴させていただきまして、深夜、関西国際空港から日本を発ちました。 それからというものは、さまざまな感動の日々でした。 まず最初に感動したのは、バンコク国際空港で乗り換えの航空機を待つ間、おたすけ隊のみなさんとともに、ロビーにてよろづよ八首ておどりをさせていただいたことです。私にとって海外の、しかも空港のような場所でのておどりは初めての経験で、何とも言えない気持ちでした。 ナイロビ空港につくと、空港からバスにてエンブ布教所に向かいました。布教所につきますと、私は視覚障害者ゆえはっきりとは見えなかったのですが、幼稚園児か小学生くらいの小さなお子さんが、流暢な日本語で「こんにちは」と出迎えてくれ、首にレイをかけてくれました。 夕方、エンブ布教所にて夕づとめ参拝をさせていただきました。そのおつとめの仕方というのが、三曲鳴り物入りで、小学生くらいの子どもも一緒になって、一手一つにつとめています。 布教所長さんご夫妻は現地へ赴任されて6年半になるとのことでしたが、わずかそれだけの期間で、よくここまで仕込まれたなと私は心底驚き、感動いたしました。 おつとめが終わると、所長さんがおふでさきを一節ずつ拝読されるのにつづいて、現地の信者さん方も日本語で拝読されていました。私なら、アフリカの言葉を教えていただいても、なかなかその通りに発音できません。それが、みんなものの見事に日本語でおふでさきを読まれている。その後、八つのほこりの教えを全員で拝読して、夕づとめは終わりました。 夕づとめ後は、私たち一行の歓迎セレモニーを開いていただきました。まず現地の郷土舞踏。つづいて小学生たちが、ピアノ伴奏に合わせて教祖120年祭の歌を披露してくれました。 私は地元が大阪の松原市で、その場にいた誰よりもおぢばに近い場所に住まわせていただいている者でしたが、そのころはまだ教祖120年祭の歌を聞いたことがありませんでした。ですから、よもやおぢばから遠く離れたケニアの地でその歌を聞かせていただくとは、夢にも思いもしませんでした。 現地の小学生が、何ともきれいなハーモニーで歌うのを聞かせていただいて、私は涙が出て仕方ありませんでした。山崎先生からは「あなたは泣き虫だね」と言われてしまいました。 その夜は宿舎に泊まり、明くる日またその布教所を訪問させていただきました。 2日目のその日は、所長さんから布教所内の施設を案内していただきました。布教所の中には小学校があり、小学校は8年生まであるということです。敷地内にはその他木工作業所、溶接工場、また縫製所まであって、服などを作っている。また歯医者さん、内科のお医者さんのおられる診療所のような建物もあり、ほんとに大きな布教所でした。 布教所では一食当たり400食を作るということでした。そのうちようぼくが何人おられるのか詳細はわかりませんでしたが、信者さんの数からしても、すばらしい布教所でした。 それを最後に、次に向かったのはキスムというところでした。ナイロビ空港からキスム空港へ行き、空港から車でホテルに向かいました。 その道中、夕日の沈む姿、ビクトリア湖、地球の割れ目といった場所を山崎栄慈さんにご案内いただきました。私はあまり見ることができなくて残念でしたが、夕日だけははっきりと見ることができました。公害のない国のことだからでしょう、とてもきれいだった夕日が今も目に焼き付いています。 宿舎のホテルにつくと、まず庭に出て夕づとめをさせていただきました。私が最年長ということもあってか、山崎先生のお心づかいで、誰にはばかることなく、大声で最初の夕づとめをさせていただきました。日本なら、ホテルの庭あたりで、大声あげておつとめをしていたら、おそらく怒鳴られてしまうところだと思いますが、さすがに国が広いところの人は心もおおらかです。それにも感動して、日々、新たな感動の連続でした。 明くる日も、宿舎で声高らかに朝づとめ、1下り目のおつとめさせていただき、それから現地の小学校へ行きました。校長先生が、児童とともにものすごくよろこんでお出迎えくださいました。 そこでよろづよ八首から12下り全部通しておつとめさせていただきましたが、ておどりの間中、私の左横には14、5歳の子が並んで立って、私のおてふりを見ながらまなんでいました。 それが終わるやすぐ、おさづけの取り次ぎをさせていただきました。日本国内でお取り次ぎすることはありましても、外国では初めてです。しかも日本では断わられることも多いのに、現地では並んで順番を待ってくださっています。お取り次ぎさせていただきながら、胸がいっぱいでした。 水くみの体験をさせていただき、さらに、病院にておさづけの取り次ぎをさせていただきました。 私が小児科に行くと、診察の最中だったのか少し待ってくれということでしたが、それが終わるとすぐ、看護師さんが何のためらいもなく部屋に通してくれ、おさづけを取り次がせていただくことができました。 ここでお取り次ぎしたのは、生後3カ月のマラリアの赤ちゃんの他、3人の子どもさんと、足を骨折したおばあちゃんでした。それがすむと、青空マーケットのようなところへ移動し、そこでまたおさづけを取り次がせていただきました。そのとき、現地の人が大声を上げて何か叫んでいました。一瞬、何を叫んでいるのかと少し不安になって同行の人に聞きましたら、その人は、第1か第2回のアフリカおたすけ隊のどなたかにおさづけを取り次いでもらって、腕があがるようになったと、大声で叫んでいるということでした。それを聞いて、私も一安心しました。 そのころ、山崎先生は車でおさづけ取り次ぎの出張に行っておられました。現地の方は、おさづけというものをものすごく楽しみにしておられる。後で聞けば、一人の少年が、寝たきりの母親にためにおさづけをしてほしいと頼みにきたということでした。 おさづけというものをこれだけ信じ切り、要請するという姿は、日本ではとても考えられないことです。 その翌日は、陸路で隣国ウガンダへ向かいました。 道中、なんと周りは地平線ばかり。いけどもいけども何もない。空と大地、それだけしか見えないようなところでした。 驚いたのは、信号がないということ。山崎先生によると、人が居住している場所には、バンブーロードという道路の突起があり、車はスピードを出せない。そこへくるとスピードがゆるんで、あとは直線をまるきりカーチェイスをするがごとく、すごいスピードで走っている。また大地のレンガ色、これにも驚きました。 今回の旅で、私はアフリカの皆さんがよろこばれる姿に出会って、ぜひ来年も行けるものなら行かせていただきたいと願っています。私は視力に障害があっても歩くことができます。両手も使えるものですから、おたすけをさせていただけます。 このような私でもできるのですから、行く気のある方はぜひ、家の中に閉じこもらず、ともに行きましょう。 教祖120年祭、3年1000日の真っ先に世界たすけに取り組めたことを、私は誇りに思っております。 | ||||||
私達が、ボンド地区にておさづけを取り次がせて頂いた方々の多くは、マラリアであった。中でも、重病患者を扱う国立ボンド病院でのおたすけは、見る目を疑う程の惨状であった。 隊員が病室へと案内される。そこには、日本では考えられないアフリカ医療の現状があった。4〜6人部屋のスペースには、有に倍以上の患者が身体を寄せ合うようにして横たわっている。1つのベッドに2人、3人。床の上も、病人で足場が無い程である。冷房はおろか扇風機さえも無い。窓からはアフリカ特有の強い日光が差し込み、室内の温度は異様なまでに上がっている。 17才の少女ビビアン。とてもその年齢には見えないほどに痩せこけて、マラリアの高熱で息も絶え絶えの瀕死の状態である。母親に抱きかかえられるようにして上体を起こし、おさづけを受けてくれた。彼女は、おさづけが終わると枯れるような小さな声で「ありがとう、レバレンド。今度は何時来てくれるの?」。この後この地を後にする我々。即答が出来ない自分に苛立つ。 高さが30cm、長さが60cm程の鳥かごの様なものにタオルケットが掛けられ、首から上だけが出ている幼児のベッドへ向かって足を運ぶ。母親がタオルケットを外してくれる。一瞬身体が固まってしまう。ラマリちゃん(2才)の下半身は、白い骨がはっきり見える程、皮膚が完全に溶けてしまっている。エイズか...(アフリカでのエイズ蔓延は深刻。母乳による母子感染も多い。自分が感染していることを分かっていても、粉ミルクの買えない彼女たちには母乳を飲ませるしか手立てがない。)両手をかごの中に入れ、おさづけをとりつがせて頂く。小指が一瞬、ほんの少しだけラマリちゃんの身体に触れてしまう。今まで身動きすらしなかった彼が、金切声を上げて泣き叫ぶ。しかし、母親は少しも動揺することもなく、やさしい声を掛け続けている。限られた時間の中で、親神様・教祖の御教えを満足に伝えることも出来ぬまま、その地を後にする。苛立ち、挫折感。自分はただの通りすがりの旅行者と大して変わらないではないか!やり切れない思いをしたのは、決して私だけではない。隊員全員の表情がいつもと全く違っていた。暫くの間全く言葉さえも出ない。 車中で手渡されたマラリアの特効薬は日本円で約千円程。我々にとっては、命を守る代償としては、決して高いものではない。しかし、ウガンダやケニアでは大金である。おそらく田舎では、一家族が一ヶ月間、有に暮らせる程の価値があると思われる。現地でこんな高価な物が買えるのは、ほんの極々一握りの人達であろう。薬が買えない為に、蚊に刺されただけで簡単に命を亡くしてしまう。何と言うことか!今でも、世界中で毎年150万人以上の人々が、マラリアで命を亡くしている。しかも、そのほとんどは、適切な治療を受けられない為にである。我々日本人の常識では、考えられない現状が世界中いたる所に溢れている。殊にこのアフリカの地においては。しかも、それ以上に怖い病気もたくさんある。この現実を、少しでも多くの人々に、教内の方々に知って貰いたいと強く感じる。この後、私自身も、そのマラリアの怖さを身をもって体験することになる。 アフリカおたすけ隊本隊は、2月5日、ウガンダのエンデヘ空港より帰国の途につく。先に現地で受け入れを担当していた、敬充君と藤さん、そして私の3名が当地に残る。医療巡回を中心とした救援活動の為、NGO AAAの活動拠点であるウガンダの奥地、カルング郡ナプトングワ村へと向かう。彼ら二人はアフリカのベテラン。一時帰国した後は、今後もウガンダで活動する人たちである。私にとって、村での生活は全てが初めてで、正直に戸惑うことも多かった。電気も水道も無い生活。しかし、彼ら二人はその生活をとても楽しんでいる。特に敬充君はターザンみたいな若者で、夜、外で軽装(パンツ一丁)のまま平気で寝ていることもあった。信じられない程アフリカ化した日本人。(いや、アフリカ人でもこんなことはしない) 私はナプトングワ村の人々を見ていて、不思議なことに気がついた。それは、今まで見てきたアフリカの人たちの中で、ここの村人達が一番幸せそうに見えてきたことだ。どう見ても一番貧しく、ウガンダの中でさえも、医療や教育においては、かなり低い水準ではないかと思われる。しかし、彼らから、それらに対する不足や悲しみは、ほとんど感じられなかった。特に、この拠点に集まって来る子供を中心とした人たち。彼らの澄んだ心に、私自身が助けられていく様にさえ感じる。いやおそらくそうだったと思う。日本とかけ離れた生活環境の中、彼らのお陰で私の心は本当に癒され助けられた。毎日のように、おたすけに付いてきてくれる少年ワルシンブ。音楽仲間となった、ウガンダドラムの名手スピーディー。私が家の前を通る度に、名前を呼んで丁寧に挨拶してくれる御婦人。(この挨拶が信じられないくらいに長く複雑で、遂に私は、最後まで覚えることが出来なかった)この村での心温まる出来事は、例をあげれば数え切れないほどである。これには長い年月の間、シンバ隊長始め、村の子供達からいつも名前が出てくる「チエさん」、そして多くの方々が尽くし切った誠真実があってのことだろと強く感じた。この拠点には、本当に心の綺麗な人たちが沢山集まってくる。そして4月からは、日本のターザンがここに永住する。将来がとても楽しみである。 村での滞在を終え、首都カンパラに移動して3日目の夕刻、私は突然の悪寒と関節痛に襲われる。そして発熱。夜には40度近い高熱となり、マラリアを覚悟する。翌朝、ホテル近くの病院を受診すると、熱帯性マラリアという診断である。マラリアの中で、最も危険なタイプである。しかし、アフリカではこの熱帯性マラリアでも、余程でない限りは風邪扱いである。筋肉注射を一本打ち、後は自分で薬を買って飲むだけである。治れば再来受診の必要もない。 遂に一番恐れていた病気になってしまった。その日から4日間、今まで経験もしたこともない高熱が、1〜3時間の周期で上がり下がりを繰り返す。体温計を横目で見ていると、デジタル表示のディスプレイは、どんどんと数字が上がり、39度5分を超えても尚も勢いが止まらない。全くもって臆病な私は、そこで体温計を外してしまう。あのまま計っていたら、一体何度まで上がっていたことか...忙しい中にも、親身になって、おさづけをとりついで下さる敬充君と藤さん。二人に弱音を吐くことは出来ない。しかし、今だから言えるが、自分自身かなり気が滅入っていた。熱が下がらない。本当に薬が効いているのか...違う病院へ行った方がいいのでは...家族の顔も頭に浮かんでくる...情けない事ばかりを次から次へと考えてしまう。ケニアのボンド地区の路上、おさづけをとりついだマラリアの男性に薬を請われたが、断ったことも鮮明に思い出される。その他にも、重病人をあちこちに置き去りにしてきている自分。今まで、こんなに自分を責めたことは無いのでは...しかも、その時の私は、布教師にとって一番肝心の「親神様の思い」ということを、全く悟ることが出来ないでいた。情けない限りである。しかし、それは一言の言葉で救われた。シンバ隊長からの愛のEメール。「イガさん、アフリカに講社の心定めを!」 これか!4日目の昼、敬充君から伝え聞いたこの言葉。はい、わかりましたとの返事をお願いする。マラリアを通して、親神様は、自分にどうせというのか。何を求められているのか。自分では、いつも偉そうにおたすけといっては、人にああだこうだと言っているはずなのに。いざ自分がこうなると、さっぱりである。マラリアになっても生きているではないか!ということは?私にとってのアフリカは、これがスタートである。そして少しでも現場に...親神様が、それをお求めになられていると悟らせてもらった瞬間、本当に気持ちが楽になったのを、今でもはっきりと覚えている。とんでもない心定めをしてしまったが、本当に私はこれで助かったのである。 5日目の朝、熱を測ると平熱に。体力試しにホテルの屋上まで階段を上がる。大丈夫だ。屋上で、そのままおつとめを勤めさせて頂き、早速にをいがけ・おたすけに出させてもらう準備をする。心強いことに、同室だった藤さんも、にをいがけに行くとのこと。藤さんは空手の達人で、2週間前、私は彼に引っ張られるようにして、カンパラのスラム街で、路上に倒れる病人を次々と交代でおさづけをして歩いたことがある。アフリカの都市の治安の悪さは、周知の通りである。(もしやこれは、教史に残るアフリカ布教の一幕かも...)一人が見張り、一人がおさづけを取り継ぐ。何度となく身の危険を感じた。彼の、並はずれた度胸と腕っ節、そして信仰には感服する。 外の空気を吸うのは5日ぶり。本当に気持ちがいい。しかし、まだ足下が少しふらつく。一人だけでもいいから、おさづけを取り継がせてもらおう、そう思い、ホテルの近くでの戸別訪問を始める。心臓が悪く、息苦しいという老婦人に出会う。おさづけを取り継がせて頂いた。すると、彼女は、とても気分が好くなったとのことで、私の手を握ったまま離さない。住所を聞かれる。必ずまた来ることを約束し、次の家へ。こうなると、にをいがけが楽しくて楽しくて仕様がない。マラリアのこともすっかり忘れて、歩き続ける。2時間も経ったであろうか。さすがに気が付くと、身体はフラフラである。しかし、心は晴れ晴れ大晴天。 ナプトングワ村での衛生指導後のおさづけ。2時間以上も休むことなく取り継がせて頂いた。その数は50人を超える。ケニアボンド地区でのおたすけも同様であった。シンバ隊長曰く、「アフリカではよふぼくが足りない!」これは紛れもない事実である。おさづけを求めてくる人の多さ。そして、その場での、不思議なご守護を目の当たりにさせられることの多さ。これは間違いなく、親神様・教祖が、アフリカに道をつけたい、広げたい、そして助けたい、そう強く思し召されているからである。 「たん/\と月日にち/\をもハくわ をふくの人をまつばかりやで」 (十三 84) 「この人をどふゆう事でまつならば 一れつわがこたすけたいから」 (十三 85) 親神様は、世界一れつの子供を助けたい上から、多くのおたすけ人を待ち望んでおられる。一人でも多くのよふぼくが、特に「あらきとうりょう」始め若い世代が、この親神様・教祖の思いを真正面から受け止めていかなければならない。 | ||||||
1月27日〜2月6日帰国予定。第3回おたすけ隊、ご本部の神殿で参加者全員揃っておたすけ祈願のおつとめをさせていただいて、関空へ…、A隊11名。教祖のお供をしてどの顔も皆勇んで現地入り。タイのバンコクで1泊していよいよアフリカに。 ナイロビから直行して先ず典日分教会エンブ布教所へ、400名くらいの幼稚園児はじめ、高校生等手作りのレイをかけてくれて全員歌を唄って大歓迎を受ける。あまりの予期しない暖かい出迎えに涙が出る。タづとめを一緒に紫のハッピを着た100名位の生徒たちで拝殿を埋め尽くす。てをどり学びの后、オルガンに合わせおやさまの歌を全員で歌ってまたまた感激の涙と共にタブとめ終了。その后現地のダンスを踊って歓迎をしてくれた。 翌日ホテルの中庭でケニアについて初めての朝づとめを…。エンブの施設内見学、農場、牛小屋、著便式のトイレ等、EMを活用した効果で蝿がいない、匂いも少ない。これには驚くと共に感動した。 昼食をいただいて、いよいよおたすけ活動の現場へ、ワゴン車でナイロビへ、そこから国内機でケニア第3番目の都市キスムの小さな空港に着陸→ここからはテッコーツアーズのチャターワゴン車二台に分譲して、ボンドのスイテルホテルにチェックイン。各部屋でちょっと休んでケニアで始めての夕勤め、おぢばの方向に向ってのおつとめ目の前はホテルの垣根があったが、垣根の陰で、共におつとめを勤める声が聞こえた。おつとめが終わると全員が垣根に駆け寄り、見えない子供達に声をかける。カニケラ村ランブグ小学校の生徒が夏休みにもかかわらず大勢の村人たちと私たちを待っていてくれた。12くだりのてをどり後、おさづけ取次ぎ9人が横一列に並びその前に次々と並ぶ。若い母親に抱かれた小さな赤ん坊お腹を指さす。一心におさづけを取り次ぐ。次は初老の男性、頭と肩と痛いという。3ヶ所取り次ぎその日は7名。 2月3日明け方、3:00私自身が下痢で同室の藤原えみ子さんにおさづけをしていただき、お供さんをいただく。この后、会長さんにおさづけをしていただき、朝づとめに屋上へ駆け上がった。終わると同時にトイレへ駆け込む。いよいよ8,00の出発。次の予定地へ。2時間くらいの道のりで心配したが、鮮やかなおさづけのこうのうの理をお見せ頂き、それっきり下痢は止まった。 翌日、ボンド国立病院、院内は粗末なベッドのみ何の設備も無い。ベッドの無い人は床に寝転がっていた。何本かの点滴はあるが数が足りない。幼児の病室は西日が当たりむせ返っていた。そこでのおさづけ取次ぎは涙なくして取り次ぐことは出来なかった。女性2人男性1人幼児6人 翌日、アジコマーケット、大勢の人たちが私たちを待っていた。広場での木陰を見つけ木の根っこのところへ腰掛けてもらい、15名、もういませんかと声をかけると、中年の婦人が何人か立っている。通訳をジャクリンに頼む。家に子供が病気で寝ているとのこと。5分くらいの所と言うので会長さんと、その婦人についていく。帰り道が心配になってきた。すると、後ろから車が来た。ジャクリンが心配して、車を向かわせてくれたのだとのこと。一安心。おさづけ取次ぎ又、広場へ付くとすぐ又、家へ着てほしいと言われ、又、家を訪ねる。5歳くらいの男の子、腕の自由が利かないとのこと。又、頭が痛いという。おさづけを取次ぎ、車に乗り込んだ。広場に戻ったが、一台の車は先に帰ったという。もう、日が沈み、薄暗くなっていた。アジコマーケット17名。 隣国ウガンダへは陸路を行く、延々800キロ?マサカ県カルング郡ナブトングァ村に在る。渕和ウガンダ出張所へ到着。衛生指導に集まった村人たち何百人いただろうか。講習会の後おさづけが始まった。私だけでも40人にお取次ぎをさせていただいた。 翌日灼熱の太陽の下。この日は個別訪問おさづけに回った。マサカの拠点地の近辺のぽつぽつとある商店。バナナ、コーヒーの実の干したもの、マトケ屋(バナナをむす)ムルワテチ(病気はどこ)ウガンダ語で声をかける。すぐにおさづけを取り次ぐ。ウェバリーニョ(ありがとう)と握手をすると喜んで手をギュッと握り返す。時々、 「もうかりまっか 」等と、私たちに声をかける現地人もいた。先に来た人たちが教えていったらしい。何軒かおさづけを取次ぎ、集合時間が30分も超えた。急ぎ足で戻ろうとすると、5歳くらいの男の子が後ろからかけてきた。ママ・・・、ママ・・・、何か、ママが悪い様子。その子の手をつないで戻ってみると、母親が木陰で横になっていた。急いで 「ムルワテチ 」と聞くと、頭とお腹を手で押さえた。マラリヤらしい。おさづけを取り次ぐ。終わると、赤ん坊にもしてくれと言う。赤ちゃんはお腹だった。特に赤ちゃんの時のおさづけは涙が出て仕方なかった。途中、仲間たちと一緒になり集合場所へと戻った。若者組はまだ着いていなかった。 この12日間、教祖120年の三年干日の初年を第3回おたすけ隊に参加できましたこと、数々感動を頂き、親神様、教祖様はもとより、ご一緒させていただいた先生方、本当にありがたく感謝申し上げます。 | ||||||
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この文が出る頃には、主人はたった一人で、水も電気も食物も医者も薬もない、アフリカへおたすけに旅立たせて頂いている事でしょう。私の子供達と同じくらいの小さな子が裸で物乞いをしている姿、なす術なく出直していく姿を見て、「同じ親神様の子供なのに、なぜ?」と主人は涙したそうです。ウガンダでは毎日、約百人へおさづけを取り次ぐそうです。そして、前回はダウンタウンに入り込んで一人がおさづけ、一人が見張りと命がけで回ってきました。私は日本で留守を預かりながら、無事を祈り十二下り、神名流し、そして一日三人へのおさづけを実践させて頂きました。それでも水も食べ物も寝る所まで結構にお与え頂いております。主人のいる所は何もなく、毎日多くの人々が出直して行くのです。「海外まで行かなくても日本で同じ事をやればいいのに」「経済的余裕があるからだ」等々の批判を浴びながらも、都南前会長様の「おたすけならば、教祖が連れて行ってくれる」とのお言葉を信じて、今主人は海外布教をさせて頂いております。昨年、四男を出産しました。妊娠四ヶ月の時、お腹が痛くて痛くてどうしようもなく産婦人科に行きました。「明日流産の手術をします。残念ですが、準備をしてください」と言われました。翌日都南の奥様がわざわざおさづけを取り次ぎに来て下さいました。都南の会長様にも「何でもかんでも喜び勇んでにおいがけ」とメールでお諭しを頂きました。主人がアフリカの事を始めてから不足ばかりしていた自分に気づきました。教会の中も、兄弟も海外布教を反対しておりました。人より十年、二十年先を見ている主人は変人と言われ、馬鹿にされ、それでもすべて先の楽しみと喜んで通っておりました。たった一人で頑張っている主人に心を揃え、一緒に勤める心を定めました。それが私達の運命であり、親神様の思いなんだと。そして病院に行きました。先生は「大丈夫だよ。赤ちゃんは生きているよ」と喜んで下さり、不思議な御守護を頂きました。出産の時は、夢の中で教祖がお腹を撫でて下さり、「この子はとても親孝行な子だよ。両親の片腕になる立派な子だよ」と出てくる直前までさすって下さいました。皆様にお世話になり、四男大地は生まれることができました。命懸けでおたすけしている主人を見て育つ四人の子供達には、同じように人の為には何が何でもと信念を持った用木に育てさせて頂きたいと願っております。そして近い将来、主人のいるアフリカの地で親子揃って、布教することを胸にこれからも勇んで通りたいと思います。 | ||||||
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アフリカの人々はとてもフレンドリーです。道ですれ違っても、挨拶をしたり、手を振ったりすれば、必ず返してくれます。話しかければ、立ち止まって、相手をしてくれます。片言の現地語で「病人さんはいませんか?」と尋ねると、「自分がどこが悪い」とか「あの人が病気だ」とか答えてくれます。中には「家族に病人がいるから、家まで来てくれ」と言って(恐らく)、連れて行ってくれる人もいます。一人の方にお取次をしていると、アッというまに人だかりができて、私にも、俺にも、と申し出てくれます。マラリアや、中にはコレラの人もいます。こちらもどんどん勇み心が湧いて、おたすけに回らせて頂きました。機会があれば、ぜひ、皆さんも、アフリカでのおたすけに参加されてみてはいかがでしょうか? | ||||||
色々出発の準備をしていた矢先に、色々な節を見せられました。その都度シンバさんに電話をかけて、相談させていただきました。「行くまでには、色々な節を見せられますよ。それは神様からの本気か否かのお試しです。」そう励まされて、決断を鈍らせること無く、勇み心に奮起して・・・・・・ 現地に行ってみたら、あの赤道直下の熱い太陽の直射を受けておつとめを勤めました。とにかくおさづけを取次ぎ続けました。休もうにも次から次へとして欲しい人が切りなくやって来るのです。ケニアでもウガンダでもそうでした。「アフリカは沢山の病気の人がいます。おやさまのよふぼくがもっと沢山行かなければ、」と強く感じました。来年は息子は勿論、周りの人達に声をかけてまた参加しなければと、使命感に燃える私でした。 |